今襲われている心の痛みはどこからきている?

日々の棚卸

 

普段は人といても独りであっても

普通に過ごすことができるけれど、

 

一旦何か、良くない事が起こると、

焦るわ憤るわ不安だけが先に立つわで

すぐに混乱することが多くて、

 

若い頃の私は、自分のことを

よほど気が小さいのか、

心が弱いのか、

と思っていた時期がありました。

 

それは家族が離散した後、

顕著な症状となって、生きづらさを

募らせる羽目になったのですが、

 

潜在的にはそれ以前から抱えていた

感覚でした。

 

もっとも、そのことを

意識するようになったのは

症状が顕著になってからだったのですが、

 

原因不明の憤りが空回りしたまま

社会と向き合う中で、

 

内心の怯えや不安を感じざるを得ない

自分に気づき、

随分戸惑いました。

 

どうしたらよいかわからなくて、

 

周囲が自分を嘲笑い、陥れ、

社会の仕組みは自分を

のけ者にしようとしているような

被害者意識にも苛まれながら、

 

何のためかもわからない『努力』

― 身体を動かしたり、あまり有名で

ない言語を学ぼうとしたり ―をして

 

何とかしようと躍起になっていたのは

今となっては良い思い出です。

 

 

私たちは誰もが常に、

ある世界を信じて生きています。

 

ある世界を信じると言っても、

別に宗教的な大げさなことを

言いたいわけではありません。

 

信じる世界とは、例えば、

 

人は家族に育まれて成長する、とか、

学校には通うものだ、とか、

自分の家は地震で倒れることはない、とか、

 

親は正しい、とか、

大人は自分で生活費は賄うものだ、とか、

まだすぐ死ぬことはない、とか、

 

いつも自分は悪く思われている、とか、

好きなことで食べていけるわけがない、とか、

災害で死ぬことはない、とか。

 

思いつくままに挙げてみましたが、

 

普段は意識せずに何となく

「そんなことが起こることなんて

思ってもみなかった」

ことがあふれていて、

 

それらを無意識の中に抱え込んで

私たちは生きているようです。

 

その人にとっての現実とは幻想のことで、

幻想とは現実のことである、という

あの言葉が蘇ってきますね。

 

至言だと思います。

 

 

生きていると、

大なり小なり自分が信じる世界が

崩れる時がありえます。

 

失恋したり、

受験や資格試験の不合格、

自動車事故や電車遅延、

 

自分には無縁と思っていた病気への罹患や

愛する人との永遠の別れ、

愛着のある土地を去ることになったり、

年齢を重ねた老いだったり…。

 

父が家を出て行き、

家族の形が崩れた頃しばらく、

あまりのショックに

ご飯が喉を通らなかったことが

ありました。

 

その後、

肉親が自らの手でこの世を去った時は

半ば感覚を麻痺させてやり過ごすことしか

できませんでした。

 

家族の離散で生じた症状は、

多感な十代だったからなのか、

もともと線が細かったからなのか、

と考えたこともありました。

 

その後の出来事への感覚の麻痺は、

自分の中で家族に起こった出来事を

総括できていなかったためなのかと

思ったこともありました。

 

ですが、理由はどうあれ、

 

自分が所属していた家族が

なくなってしまったことが

哀しく悔しく、

 

それが何某かの症状や行動となって

あらわれたとしても、

それを見た誰かが嘲笑ったとしても、

 

今の私が思うのは、

当時の私はその哀しさ悔しさに

自暴自棄にもならず

よく耐えたなという感慨だけです。

 

いずれにしても、そのようなことが、

我が身に起こることなど、

 

当然ながら、

実際にそれが起こるまでは

微塵も考えていなかったというのが

本当のところです。

 

父母がどうしようもないいがみ合いを、

まるで憎しみ会う宗派の対立のように

繰り返している時でも、

 

家族が壊れるとは思っていなかったし、

 

家を出て父母と会わなくなった後、

自死が起こるなんて

全く考えていませんでした。

 

というより、むしろ、

そんなことを考えたり思い煩うには、

 

あまりに心に余裕も余力もなく、

日々自分を襲ってくる

無価値観や無力感、

自分の存在自体への否定感という

 

自己不信への対処に四苦八苦する日々を

送っていたのは前述のとおりです。

 

そこから今の私になるまでのことは

これまでに何度も書いているので

今日ここでは割愛しますが、

 

家族がなくなったり、

自然死以外で死者が出ることなど

自分に起こることはない、

 

という私にとっての

意識の俎上にすら上らない

幻想が崩れたとき

 

世界中でたった一人、

取り残されたような、

救いようのない気持ちになったものです。

 

 

幻想が崩れた時、

誰もが救いのない感覚に襲われるのでは

ないでしょうか。

 

自分が裸のまま

街中に放り出されたような、

恥辱感、孤立感、恐怖、惨めさ、絶望、

そういった感覚が体の中に

住み着きだすんですよね。

 

そんな時、一時しのぎであっても

仮の幻想を作って、

その中に浸らないことには、

 

ぎりぎりまで張りつめた心が、

一本の細い糸で世界と繋がっている魂が、

破裂し、切れてしまう恐怖に

襲われることになってしまいます。

 

大人なんだから

しっかり向き合えという人がもしいるなら、

その人はあまりにその恐怖を

知らなさすぎますし、

 

そんな言葉を真に受けるほど、

人は自分の痛みに

鈍感になれるわけではありません。

 

同時に、

そんな過去を放置して

痛みから目を背け続けている限り、

 

過去が再現なく現在に侵食し、

 

周囲の出来事、いや、

あらゆる瞬間の私たちの意識と反応を、

無視した過去になぞらえて

あらわれてくることが、

ここから導かれます。

 

つまり、

場所を変えても職を変えても

そこから逃げ出したはずの出来事が

繰り返し生じるわけです。

 

もっとも、

これもまた幻想ではあるのですが。

 

繰り返しますが、

幻想こそが私たちにとっての現実です。

 

だからこそ、

同じ環境にいてさえ、

個々人ごとの人生が、それぞれ個別に存在する

ことも生じるわけです。

 

さて、あなたを襲っているその心の痛み、

一体どこからきているのでしょうね。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『台風一過の夕空』

実はよ~く見ると、雀の大群が舞っています。

いつも左下の木にとまってチュンチュン言ってるんです。

帰ってきたなあと感じる時です。

夜の散歩で川べりへ。月が風流。