ニュートラルになる場所

日々の棚卸

 

私たちは、自分なりの人生を送るために

自分の“外側”に出ます。

 

“外側”とは、

 

自分の部屋の“外側”であったり、

家の“外側”であったり、

雇われる身の“外側”であったり、

 

安定した人間関係の“外側”であったり、

保護される立場の“外側”であったり、

自分の頑なな心の壁の“外側”だったり、

 

などのことですが、

 

自分自身に何某かの負荷がかかるケースが

とても多いようです。

 

当然ながら負荷には様々あって、

これをストレスという人もいるけれど、

 

仮にそれが今の自分や

そもそもの人の生き方にとって

望ましいものであって、

 

かつ楽しめるといいね、などと

のたまわれているようなことであっても、

 

なかなか味わいたくないような

苦痛や重さや見通しのなさや居心地の悪さを

感じる場所であることが少なくありません。

 

一見楽しんでいるような人でも、

どこかで自分に言い聞かせるようにして

楽しもうとしていることも少なくなく、

 

それはそれで悪いことではありませんが、

可能なら避けたい負荷だと感じて

いるのかもしれません。

 

“外側”は日常の中にも数多くあります。

 

仕事や職場はある種の“外側”ですね。

通勤まで考えれば、満員電車もそうでしょう。

 

人と会うのが苦手な人や

引きこもりがちな人にとっては、

それこそ家の外に出て知人と会うこともそうだし、

 

独立した一人暮らしも、

自分が孤立する恐れのある場所に出向くことも、

仲違いした相手との和解の必要な状況も、

 

“外側”になるでしょう。

 

未知の領域に一歩足を踏み出すとなれば、

よほど自分が望んでそうしない限り、

そこで起こる全てが負荷になるのはご存知の通り。

 

一方で、“外側”は当然ながら、

あなたにとって多くの可能性を秘めてもいて、

人との繋がりや生活の糧を得るところであることが

多いと思います。

 

だからどうしても

何某かの“外側”に出なくてはならないし、

あるいは出たくなることも多々あります。

 

そして、繰り返しになりますが、動機が何であれ

やっぱりダメージを蓄積します。

 

その意味するところは、そのままでは、

生きるということ自体が負荷と関わることで

その関わり方の連続をして

自分の人生ということになってしまう

ということになります。

 

 

自分自身であるということは、

良く生きることの大前提だ、というと

一見もっともらしく聞こえるかもしれません。

 

でも実際には、

自分自身でないことはまずありえなくて、

 

仮面をかぶった自分も

ミスったり格好悪い自分も

明らかに自分自身の一部であることは

以前にも申し上げた通り。

 

ではなぜ自分自身ではない自分だと

感じてしまうのかと言えば、

理想的な自分とまではいかなくても

 

せめてこうであったらよかったのに、

という自分ではなかったことを悔やんで

自分自身として生きてない、と

感じることはあるのかもしれません。

 

ただ、それは“外側”に出る以上は

自分の反応を変えることにもなり得るので

なかなか簡単に変えられるものでは

ないのではないでしょうか。

 

なので、ここに、

自分自身であるということについて

次のように考えて

 

それを、

ニュートラルな自分

と仮に呼ぶことにします。

 

どんなことかと言うと、

 

『自分が自分自身であることが当然である、

ということを感じる必要もないほど

当然になっていて、

 

そこには自分自身であること自体に

疑念や不安が存在しない状態』

とでもいうべき自分のことです。

 

何だか禅問答のようなややこしい説明に

なってしまいましたが、

 

私たちは生きるために

“外側”に出ることが必要で、

時には“外側”に出たいとも感じていて、

 

しかし負荷で苦しみもがくこともあって、

その故に苦しみが蓄積して

“外側”と距離を置きたくもなると述べました。

 

ならば同じ“外側”に、

ニュートラルな自分の場所を

持っているといい。

 

そうであることで自分が自然体でいられる

“外側”を持つこと。

 

自分が自分自身であることが当然である、

ということを感じる必要もないほど

当然になれる“外側”。

 

お伝えしたいのはそのことです。

 

例えば、

 

夕暮れの川べりに佇むこと、

とある静かなメロディを一人で聴くこと、

家族で一緒に楽しくお酒を飲むこと、

 

愛しいワンコニャンコとじゃれあうこと、

旅行で鈍行の電車に揺られること、

 

電気回路を組み立てること、

料理を作ること、

昆虫採集やお絵描きに友達とのおしゃべり。

 

本当に人によって千差万別で

合わせ技などもあるのかもしれません。

 

夏休みのプールで泳いだ後、

友達と一杯やること、

 

スキーと温泉とおいしいそばを食べること、

(最近やってないなあ)

 

何でもいいのですが、

私一人が想像するよりずっとたくさん

あり得ることだと思います。

 

時間や季節や立場や事情で

ニュートラルな自分になれるところが

変わることだってあるかもしれません。

 

大切なことは、

年齢や性別や今の“義務”のありようが

霧散してしまうほどの時間を持つことなんです。

 

本当に、ほんとうに、

睡眠や食事と並んで、

仕事なんかよりずっと大切なことなんです!

 

そんな時間があるからこそ、

あなたという人間のポテンシャルが

必然的に『場を問わず』発揮されるようにも

なるのだということは認識してほしい。

 

日々の義務に苛まれ続けてばかりいないで、

“外側”にニュートラルな自分の場所を

探してみてください。

 

それ自体が楽しみともなるし、

自分自身を大切にすることにもなります。

 

そして、そんな場所が

感じられるようになる頃にはもう、

いろんなものが変わり出しているはずです。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『戦艦雲?』

帰省で昔よく通った川に立ち寄った。対岸のずっと向こうのビル群から雲が伸びていて、さながら街を覆うほどの大きさの戦艦のように見えた。

例年より気温が低く感じる中、橋のたもとではコサギやカモ?が休憩中。確かにあちらの方は人が入ってこないから良い場所なのかもしれない。