今の私は昔と比べて、何か人間的に変わってしまっただろうか。
生きることがどうにも苦しくて仕方がなかった頃、そんな問いがよく脳裏をよぎりました。何かここまで苦しまねばならないほど、
悪いことをしただろうか。
致命的なことをしでかしただろうか。
落ち度でもあったろうか。
と。
とても弱り果てた状態で、あれかな、これかなととめどなく考えていると、どれもが元凶のように思えて、それがますます自分を追い込んでいったものです。
やったことが罪悪感を植え付ける、という誰もが漠然と考える理屈の順序。確かに、一見当然のように思えるかもしれません。ですが、それとは裏腹に、ある種の『思い込み』に基づく罪悪感が宿った結果、それに見合うように人生はおかしな方向へ転がりだす、というのが心理学的な道理なのです。にもかかわらず、罪悪感を抱え込むのは・・・その方が都合がいいから。
いったい何を言ってるんでしょうね。
頭からこれを否定される方、体内に大きな感情の塊が鬱積して処理されずにいませんか。
振り返ってみてください。
私たちの体内を暴れまわる、この控えめに言っても感じたくない種類の感情は、あるいは表に出る“症状”は、いつの頃からあったのか、について。
子供のころから?
学生時代?
社会人になってから?
伴侶ができてから?
そして、それはなぜ?
外側の世界からの焚き付けという衣をまとって、自分の内側から私たちを責め続ける感情の世界に、生きている人全員が陥るわけではありませんよね。にもかかわらず、かつての私は、そして今のあなたは、そんな世界にいて先も見えない状態に思い悩んでいる。
いったい、どんな自分であればこんなに苦しまなくて済むのでしょう。こんなに抑うつ感に苛まれたり、言動が暴走したり、怒りや憤りの感情に反応してしまったりしなくて済むのでしょう。
私たちは日々様々な自己を使い分けて(=仮面をかぶってと解釈してもいいでしょう)、家庭内で、職場や学校で、地縁や友人知人の集まりなどで人と接しています。そこでは良くも悪くも、出来る範囲でなることができる自分として行動しているわけです。
では、なることができる自分とは何でしょう。反対になることができない自分とは?
なることができるはずなのに、なろうとしないとどうなるでしょう。あるいはなることが極めて難しいのに、しゃかりきになってやろうとすると?
先日、ブログで取り上げたミヒャエルエンデ作『モモ』の話で、“ひとかどの人物”という表現をしました。時間を効率化して、自分が持っているかもしれない可能性を勝ち取ろうとする町の人々と、そこから失われていく時間について。
近代国家になって以降、自由主義諸国ではいつの時代にもあったことですが、いつの頃からかそういった生き方をする例が急激に増えてきました。
頑張って努力すれば、
自分の魅力を認めてもらえれば、
素敵な夢を描けば、
・・・・・
きっと自分は“ひとかどの人物”になることができるはずだ、と。
ひとかどの人物というのは少々時代にそぐわない表現にも思えますが、以下のように言ってしまえばいいと思います。
お金持ち
地位が高い
権力がある
どこへ行ってももてもて
こんな抽象的な書き方をすると、「俺は違う」「私はそうじゃない」と言われてしまいそうです。
では、誰からも自分の思う通りに評価されている。個々人の思い描く“ひとかどの人物”はそれぞれ異なるでしょう。誰からも、じゃない。お金持ちになりたいわけじゃない。偉い人になりたいわけじゃない。存在感のある俳優女優になりたいわけじゃない。エクスキューズはいろいろつくかもしれませんが、集約するとそういうことではないでしょうか。
これらはベタな言葉に置き換えればもっと身近に感じられるのでしょうが、紙数の都合上(?)掘り下げません。
ここで言いたいことはただ一つ。
これは、嘘です!
少なくとも、あなたが心の奥底で望んでいる世界の中では、無理です!
何を言いたいかお判りでしょうか。
もう一度思い出してください。
なることができるものは何でしょう?
反対にとても難しいものは?
なることができるはずなのに、なろうとしてないものは何でしょう。
その反対は?
いつも言うように、今の自分を作っているのはこれまでの歩みですよね。そのプロセスで自分を偽り続けてきているのであれば、そこから脱出しようとどんなに素敵な未来を描いても、どんなに豊かな人生を想起しても、そもそもの自分が行方不明になっているのだから、自分が心底納得するようなこと、言い換えれば体の内側から自然に力が湧き出てくる行先など、見えるはずがありません。
ほんとはどうなりたいのだろう。
この問いは、なることができるものは何で、難しいものは何、という問いに対するカウンタークエスチョンです。
世の中に絶対はないわけですから、戦後の“自由”な社会の中で、その辺の普通のサラリーマンの家庭に生まれた人が死に物狂いの努力(!)をして総理大臣になったり、幼い頃から日々バットを振り続けてメジャーリーガーになって活躍したりということもあるでしょう。ハリウッドの売れっ子女優や俳優を夢見たり、ノーベル賞を求めたり、あるいはそこまでいかなくとも自前の会社を起業してオーナー社長を目指したりということもあるかもしれません。
ただ、その夢なるものを思い描くようになるまでの経緯をここでは問うているわけです。
何にでもなることができる、というのは、一つの可能性としてはそうでしょう。しかし、与えられた環境と素養のもとで『ひとかど』を目指すのなら、そこにはおのずと流れがあるはずです。本当は癒される必要がある傷や、長く暗闇に放置されたまま認めてあげることを待ち望んでいる自分を見ないようするために思い描く『夢』なるものは、その達成がどうであろうと本当の意味で自分が求める未来とはなりえません。
では結局、私たちはどうでありたいのでしょう。どうなればいいのでしょう。
スティーブジョブズの名言集に『今日やろうとしていること(やらないことを含む)に対して、『No』が続くようなら、人生を考え直した方がいい』という言葉があります。
まことにその通りだな、と思います。
ただ、かけがえのない自分の一部を切り離したまま『Yes』を求めようとしても、直感を含めた判断の指標が自分自身とは言い難い状態では大きくぶれたものにならざるを得ません。・・・裏を返せば、そこ、つまり切り離した自分を見出すことは、求めることの一つだったりするかもしれませんね。醜いと感じ、惨めと感じ、情けないと感じ、しょうもないと感じる自分を、どんなときもしっかりと抱きしめ、これまでの歩みが嘘ではなかったことを感じ、自分が統合されるほどに、それは見えてくるものだと思うのです。
その時、どうありたいか、どう生きたいか、何をしようか、という明日が、かつて味わった楽しさとかすかな可能性の予感とともに、啓示のように自然に見えてきます。
ご安心を。今は感じられなくとも、すでにあなたの中に宿っていますから。
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