その素敵なあなたが共存できますように

日々の棚卸

 

感情には本来、

喜び、楽しさ、哀しさ、怒り、寂しさ、

愉快さ、孤独、恨み、ねたみ、平安、

興味、不安、興奮、驚き、感謝、…

などなど、

類似の感覚まで細かく上げれば、

文字通りきりがないほど

多くのものがあります。

見てわかる通り、

かけ離れた複数の感情があって、

これらの中の多くが、

常に私たちの中に同居していて、

それを当ブログでは、

複数の自分がいる、とお伝えしています。

これまで何十年か生きてきた私たちは、

感じたい感情も、感じたくない感情も

上に挙げたものを含めて、

数多くを内在化しています。

 

ただ、そういった複数の感情に対して、

時には、

感情鈍麻という言葉で表現されるように、

感じ方自体がとても虚ろになるような

状態もあります。

抑うつ的だったり、鬱の初期などに

多くみられる症状で、

可能であれば、

心理カウンセリングを受けるなり、

クリニックで治療するなりが

望ましい状態です。

この状態が進行すると、

本格的な鬱や統合失調症など、

様々な疾患につながる可能性も

大きくなるからです。

 

そういった虚ろ感とは異なりますが、

特定の感情を全く感じない状態もあります。

正確に言えば、

感じていること自体を無視している

そんな状態です。

その理由として、

先に、複数の自分と表現しましたが、

一部の自分の存在を

否認しているか、

わかっているけど無視しているか、

自分でないかのように扱っているか、

などが考えられます。

 

そうやって扱われてしまっている自分は

ほぼすべての場合において、

抱えている悩み、苦しみを紐解く

キーパーソンだったりするのですが、

その悩みや苦しみに基づく感情が

オーバーヒートしようと

しているにもかかわらず、

手放すことができない方は、

キーパーソンたる

彼・彼女がいては都合が悪い

世界に生きているため、

先のとおり

否認したり、

無視したり、

自分でないかのように扱ったりという

接し方をしてしまっている上、

そうしていることにさえ気づいていません。

 

それを私が地で行っていた頃のことですが、

今振り返っても、

“よくもったな”と思います。

20代の頃の

常にいきり立ち続けた感情を

持ち続けていた頃です。

原家族が崩れて、

その理由もわからず、

それに対して哀しいとか寂しいという

感情を率直に感じることもできず、

パニックと、

そんな世界に追いやられたことに対する

恨みつらみと、

そこで何もできず、

何をしたらいいかわからない

自分に対する苛立ちと蔑みとが

あわさって、

“いきり立って”いるしかなかったのです。

傍から見れば、芸がないというか、

目も当てられないというか、

痛々しいというか、

自分から悪い方へ向かっているような

状態でしたが、

家族から引き継いだ

世界観、

価値観、

モノの見方、受け止め方、

世の中との接し方

などを踏襲し続ける限り、

例えどれほど、

自分の心と体が蝕まれても、

人との関係が病んでも、

未来が消えていったとしても、

持ち続けるしかない感情でもありました。

そんな中で、

“よくもったな”とは、

よくもちこたえたな、という意味で、

心と体の双方がそのときあった感情と、

その感情がもたらす結果や症状に対して、

よくもまあ耐え続けることができたな、

という意味です。

繰り返しになりますが、

そんな自分を苦しめる感情もまた、

当時の自分には必要があって、

少なくともあると思って抱き続けたわけで、

放棄できない理由でもあったのですから、

無下に批判する意味はないし、

だから“よくもったな”となるわけです。

もうお分かりかと思いますが、

いわゆる、キーパーソンたる自分を、

どこかで見ないようにしていたんですね。

 

そんな、

誰にも譲れない(譲りたくない)想いを

抱えていた私は、

同時に、

食べるための日常をも生きていたわけで、

日々会社員として糧を得ていました。

何をするんだ、というものが

何も見えず、湧き上がってもきていない

状況でした。

当然と言えば当然ですけどね。

ともかくも、自分に必要なものは、

誰かが何かを与えてくれるという幻想を

色濃く持っていて、

それに相当する言動があって、

といった日々でもありました。

さらに同時に、

友人とよしなしごとについて雑談したり、

飲みに言ったり、

釣りに行ってのめりこんだり、

運動したり、

食事を作ったり、

映画を見て泣いたり笑ったり、

といった日々でもありました。

そうこうするうち、

心理カウンセリング、

精神医療の世界と出会いました。

それ以降のことは何度も書いていますが、

そこでまた、

自分を知るために、

大切にするために、

新しい学びを得、

それまでとは異なる人々と出会い、

話をし、時には衝突し、涙もしました。

尊い時間だったし、

それは他の時間と同じ、

大切な価値を私の中にもたらしてくれました。

 

要するに、

苦しんでいる、

悩んでいる、

時には、消えたい、とまで思いながら

複数の感情を抱えていた、

つまり

複数の自分がいたということです。

 

いくつもの、

本当にいくつもの感情があって、

ある感情を感じている時には

別の感情が存在しなくなる

というわけではないんですね。

甘えた自分があって、

苦しんでいる自分があって、

耐えている自分があって、

友人たちといる自分があって、

真摯に取り組んでいる自分があって、

それらはその時々で大小の差はあれ、

いつだって自分の中にあるもので

消えたりしないし、

どれもが大切な自分の一部です。

共存した立派な自分の一部です。

格好いいものも悪いものも皆、

自分の一部なんです。

強い弱い、優先順位はありますけどね。

 

恢復方法、

ものの見方、

自分との向き合い方、

どれも大切だと思います。

でも、人によってはきっと、

今が辛い、苦しいのも事実なんですよね。

でも、

その原因の見立て、

つまり焦点の当て方は、

正しくないかもしれません。

 

最初は頭での理解からでも構いません。

つらい状況に陥ったら、

見方を変えることを意識してみてください。

誰か、何か、に怒りをや恨みをぶつけること

これを一時的にでも、

何とか収めてみて下さい。

その第一歩が、

そういう自分がいることを感じて、

受け入れて、寄り添うことです。

それなくしては、

投薬を受けても、

表面上楽しく飲んでも、

仕事で成果を出しても、

快楽を求めてベッドインを繰り返しても、

豪華な食事を食べても、

うなるほどのお金を稼いでも、

土台はぐらついたままで、

そのぐらつきが心の痛みを訴え、

それを麻痺させようとしてまた、

そんな行動を繰り返し、

最後は土台が総崩れ、となってしまいます。

 

自分を受け入れると、

哀しさや苦しさの向こうに、

ほんとは自分が何を求めていたかを

自然に理解するようになります。

その時、気づくんです。

素敵な自分がいたことに。

 

素敵なことだってこれまでにあったし、

これからもあるんだ、ということに。

 

これこそは、他の誰でもない、

苦しみ悩んでいる自分自身が試行錯誤して

体得することです。

誰もが継続すればできるようになることです。

継続するうち、

少しずつ、素敵な領域が広がってきて、

自分のなかに根付いてくれますよ。

 

気づいたら、

哀しいことや辛いことがあっても、

すぐ横に自分の素敵な感覚が見守ってくれていて、

闇に覆われた時にも、光が感じられるようになります。

 

ー今回の表紙画像ー

『昨日の青空はどこへ2』

ちょっといい感じの写真だったので、のっけてみました。。。