言葉に固定されないように

日々の棚卸

ブログは、言葉を使ってメッセージを伝える。拙ブログもその一つ。

読み返しているときなど、少しは写真や動画も載せろよ、とか、漫画かけ、とか我ながら思うのですが、それでもやはり文字を書き連ねることに走ってしまう。ここにお魚の写真貼ろうか、とか、お花の絵でも入れようか、とか、果ては自作のしょぼい料理の写真でものっけようか、などと思う時もあるけれど、それはそれとしてやはり言葉を連ねることは、何かを伝えようとするうえで私にとってとてもしっくりきます。

 

書く私と、読むあなたをつなぐのは、だから言葉。

書く私と、読むあなたの互いの過去が、おそらくは行間に漂うニュアンスの感じ取り方を決め、以降はこの過程で脳に刻み込まれた言語感覚として、意識と無意識に影響を残すでしょう。

 

言葉は、デジタル。物事に境界を設ける。

言葉は、思考と感情の架け橋。

言葉は、脳と体の架け橋。

言葉は、意味と体感の架け橋。

 

言葉は、理解と直観の源であると同時に、理屈に絡め取られる世界。

言葉は万能であると同時に無力。

 

あらゆる表現を可能にするけれど、受け手に響かなければ影響はない。ちょうど拙ブログで、毎回のめりこむように私が言葉を駆使して表現した駄文と、冷ややかな目でチラ見して通り過ぎるあなたのごとく。

 

言葉はコミュニケーションの道具。意思・意見の伝達を行う。

言語はバーバルで、非言語はノンバーバル(=身振り手振り、表情、声音、動きなど)。

対面すると、言葉(=バーバル)で伝えたつもりが、ノンバーバルの印象が自然に含まれる。2割対8割でノンバーバルの影響が大きいという実験結果もある。それは、行間を読む文章での伝達より威力がある。親しいほどにその威力が増す。そして直接的で限定的。リアルタイム以外では成立しづらい。

 

私たちは常に変化し続けている。

私たちには常に変化する余地がある。

私たちに必要なことは(自らを受け入れる方向への)変化である。

 

それを自らに言葉で促している。

それを促す言葉を吸収している。

 

変化は喜ばしい方向に行くとは限らない。

他者の喜ばしい変化はヒントであって、自分の代わりにはならない。

自分の現在地によって望ましい変化の方向も異なる。

 

変化させたくないことがある。

変化しなければならないこともある。

その基準を言語化する。

その基準を言葉に見つける。

言葉の意味もニュアンスも、自らの変化によって変わってくる。

 

言葉というものについての見方、影響を、思いつくままに書いてみました。

普段、当たり前に使っている言葉。

もしかすると、私たちに与えられた最も簡単に、最も細かく、そして自在に使うことができる関係性のツールの一つ。真摯に使えば恩恵をもたらし、楽しく使えば時間も空間も広がり、利己的に使えば自他を傷つけ、自分を欺けば罪悪感に溺れる。

 

今、あなたには大切な言葉がありますか。

この単語、この文章、このメッセージに沿って日々を過ごしている、そんな言葉がありますか。

もしあるとしたら、大切にしてください。

そして、例えそれが今のあなたにとって大切な表現であるにしても、それは時が過ぎて必要なくなれば、虚ろに変わっていくこともあわせて知っておいてください。

これに柔軟に対応できると、変化が楽になります。

 

言葉を固定しないように。

言葉に固定されないように。

自らの状態を意識し、慈しむ言葉自体の変化を許すこと。

きっと行き詰まってどうしようもない状態から立ち直ろうとして得た言葉は、1か月後と1年後と10年後とでは、意味を大きく変化させる可能性があるから。

美辞麗句はいらない。素直に『感じて』、その時々で自分に必要な言葉を紡ごう。

過去の幸せを蘇らせ、それが今も自分の中に息づいていることに感謝し、今を生きる原動力となし、素敵な未来を予感させる、いくつもの可能性を見出すように。

 

言葉は大切。

自分のことを教えてくれる。

感情を豊かにし、感情に流されず、感情とともにあり、生きる指針を示してくれる。

 

だから、今のあなたを位置付ける言葉、それを永住の地と思わないでほしい。

あなたを固定しようとする言葉、

それは、時に残酷で、時に闇に誘うような言葉かもしれない。

それは、時にきらびやかで、時に胸を躍らせる言葉かもしれない。

もしかすると、拙ブログでも時折大切だと述べている、しみじみと安らいで、胸があたたかくなる言葉かもしれない。

 

私たちは、成長するために生きているわけじゃない。

でも、生きるということは、何かの歌じゃないけれど楽も苦もあるものだ。

年を取るほどに、ともすれば苦が多くなる気がする人だっているし、それはできれば乗り越えていきたい。

だから、そんなもんだと落ち込むのはほんの一時にして、何とかなるさと一歩を踏み出して、疲れたら一休みしようと自分に声をかけて、また心のままに歩みだして、大笑いして、時にはまた落ち込んで、でもやっぱり何とでもなるさと飄々として、それが板についてきたら悠々と動いて、そうやって必要な言葉を内在化して生きていけるといい。

 

以前、投薬は補助剤、と書いたことがあります。

薬よりはずっと身近だけど、言葉もやはり補助剤だと思います。

一番大切なことは、あなたの心身と体感と直観。それ以上でもそれ以下でもない。

 

私たちの“今”は、過去の集積の上にある。

それは、“過去”を語る言葉を媒介して表現されているといってもいい。

私たちの“未来”は、“今”の集積によって紡がれる。

それは、“今”を語る言葉の向こうに到来するといってもいい。

 

言葉はパワーであると同時に無力。

それはすなわち、あなたがどう生きたいかを自分への飽くなき想いとして表現する選択によって、どちらにでもなるということだ。

お金が、モノやサービスなど目に見える価値の対価だとするなら、

言葉は、感情や感覚など目に見えない価値の対価だと思います。

どちらも、得たものの“本質”は、本人の想いや本音に依拠します。

 

生活を潤し、豊かに生きる目的で稼ぐ、手段としてのお金。

それがいつしか、手段の目的化によってお金自体に固定される。

感情を潤し、自分の感覚に沿って紡ぐ、手段としての言葉。

それがいつしか、手段の目的化によって言葉自体に固定される。

 

言葉は、まず感情、感覚とつながっていること。

そして言葉をつなげる先に向いていること。

 

…このブログも、大丈夫かな?

と、内省。

拙いなりに心して、これからも言葉を紡いでいこうと思います。