楽しく働くことは正しい?

日々の棚卸

楽しく働くこと。

楽しく生きることと言い換えてもいい

かもしれません。

それが正しいか?

おかしな標題だと感じられた方、

どのくらいおられるでしょうか。

生きること、働くことに

楽しさを追求すること、

「当たり前だろ、そんなこと」

とさらりと言う方は、

その理由を説明できるでしょうか。

反対に、

「みんなが好き勝手に楽しさ求めたら

社会がおかしくなる」

という方も

少なくないかもしれませんね。

 

私たちの悩みは人の関係に行きつくとは、

よく言われます。

確かに、そうかもしれない。

人の関係とは大きくは

家族・肉親と仕事絡みの二つに

分けられるでしょう。

友人知人、趣味の仲間、

極論すれば近隣の住民関係も含めて、

解消しようと思えば、

多少のダメージを覚悟すればできなくもない。

しかし、家族や仕事絡みの関係性は、

それらとは一線を画す、

気が合わないから、とか

気分を害したから、とかでは

避けて通ることが難しい関係性です。

いえ、正確に言えば、

仕事関係も、家族の関係も

腹を決めれば、

関係性を切ってしまうことは

できなくはありませんが、

それが簡単なことではないことは

お分かりだと思います。

そんな関係の中でこじれる問題を、

即座に解決する方法というのは

なかなかないことが多いもので、

私が話を伺う中でも、

誰かを悪者にしながら、

その実、

一番荒れ狂っていたり、

一番泣いていたり、

一番落ち込んでいたりするのは

当の本人だったりするものです。

正直に言えば、

そうなってしまう原因としてあげられる

外的な人間関係は脇においてもよくて、

だからこそ、

自分を受け入れることの大切さと

実践の必要性とを

何度も申し上げてきました。

ただ、そうはいっても

その手前で立ち止まったり、

あるいは実践しても

原因の解決に躓いていたりすることも

またあるものです。

 

お金は、

そんな原因の一つだったりします。

お金はそんなに必要かな、

というより、

必要に応じてお金は工面できるというのが、

私の正直な意見ですが、

すると、

子供の学校はどうするんだ、

住む場所が、

健康が、

とまるで親の仇のように

食って掛かってくる方がおられるので、

チキンな私は時々縮み上がってしまいます。

ただ、

お金が大切であることはその通りですが、

それは結局、

働き方、生き方の問題に

行き着くと思います。

 

全国の小学校にある二宮金次郎像。

見たことがない人はいないでしょう。

薪を背負って歩きながら

書物を読む人の像ですね。

今なら、ながら歩きするな、と

突っ込みの一つも入りそうですが、

それほど努力は尊いんだよ、

と伝えていて、

それを教育の根本におく

我が国の教育機関のメッセージですね。

二宮金次郎は二宮尊徳のことで、

自身が文書に署名するときなどに

金次郎という名前を書いていたそうです。

その彼が残した名言に次のものがあります。

『道徳なき経済は犯罪であり、

経済なき道徳は寝言である』

資本主義社会における労働について、

うまく表現された言葉だと思います。

これが日本で、

身の回りで、

どこまで実行し、

そして実現されてきたかについては、

それぞれ意見があると思います。

私個人としては、

これほど人口が多い国のわりには、

金次郎の言葉を実践できているのではないか

と思っています。

こう言ってしまうと

反論が聞こえてきそうですが、

ともかく、

つい半世紀くらい前まで私たちは、

最低限の生活を成り立たせるために

苦労していました。

翻って、現在、

名目上のことではあっても、

全人類に行きわたらせるだけの衣食住を

生産する術を私たちは獲得しています。

名目上とお断りした通り、

分配には、いまだ知恵が必要で、

どうにもこうにも

偏りが生じている状況ではありますが、

量に限ってい言えば、目途はついています。

紆余曲折、不平不満はあるにしても、

道徳のもとの経済の実現を試みて、

何とか経済=衣食住を実現できたわけです。

 

人は食べないと死んでしまいます。

寒さや暑さで死んでしまいます。

そこに安全と安定を加えてもいいでしょう。

それらが仮初めにではあっても

実現の目を見たという言葉にならない感覚が

庶民の底流に流れ出した時、

それらを実現する上での不断の努力とか、

なにクソ、頑張るんだというド根性論が、

すなわち精神論が

一部でひっくり返ってしまいました。

そんな姿勢での働き方、生き方は

おかしいぞ、と。

そんなのは嫌だよ、やりたくないよ、と。

私に限って言えば、

こういた精神論、

つまり、

努力とか根性論は決して無駄にはならないと

考えていますが、

これはいい悪いの話ではなく

時代の変化、パラダイムシフトが起こった

といえると思います。

そういう意味でも

国民国家の登場は大きいですね。

なぜって、この間も言いましたが↓、

https://nakatanihidetaka.com/standing/

生きる責任を国民一人一人に

還元する仕組みですから。

還元が不公平だと感じるから、

文句を言う人も多いのが現実ですが。

 

繰り返しますが、

歯を食いしばって努力したり

頑張ることが常に善だったのは、

そこに

生きる保証、

衣食住の保証、

安全の保証、

そういった守られているという感覚が

とても乏しかった、

というのはあると思います。

現代は、保証が完璧だ、

なんていうつもりは毛頭ありません。

様々な理由で、

日々生きることに苦労の連続の方を

少なくなく知っている身としては

保証の話をさらりと述べるには

抵抗があるのも事実です。

ですが、少なくともこの100年、200年の間に

身を削るほどの努力、

魂を削るほどの頑張り、

そんなことまでせずとも、

生きることへの保証がずっと増した、

生きられることが当然となった、

そう感じている人が

大多数だと思います。

繰り返しますが、私個人としては

そういった生き方、

つまり頑張りとか努力は

やり方を間違えなければ

無駄にはならないと

いささか時代に逆らうようなことを

申し上げますが、

ともかく、

資本主義が健全さを保つには、

この社会が今後も有効に機能するには、

単なる努力論とか精神論だけではない

新しい生き方、働き方が求められている

時代が来ているのだと思います。

にもかかわらず、

好きでもない仕事を

好きでもない働き方で

日々行っていて、

ちっとも楽しくない、

しかもそれは、生まれ育ってきた中で

身に着けた努力と頑張りによって、

ほとんど機械的に続けていることなら

抑うつや無気力に陥ったり、

人と衝突を繰り返したり、

やたらお金や地位を求めたり、

となっても不思議ではありません。

そういったものを求めることが

悪いとは言いませんが、

そのモチベーションが自分の価値を

低める作用も及ぼしているのなら、

考え直した方がいい。

 

私たちは常に変化し続けています。

世の中には問題と言われるものが

なにかしらあります。

困っている人がいます。

本当に困窮している人もいれば、

不満不安を抱えていたり

楽しみが見えない

充実していないという人が

少なくなく存在します。

シュンペーターのいう革新が

資本主義の生命線だとするならば、

Howはともかくとしても

そういった問題の解決が

好きに楽しく働くことを求め、

見出し、

実践することではないでしょうか。

楽しくとは別に

毎日笑いが止まらん、わっはっは、

という意味ではもちろんなくて、

「感動を行動に変えたい」

「この想いを実現したい」

「短い人生を充実させたい」

「共感する彼ら彼女らのために生きたい」

そういったことです。

しかもそれを、

ある特定の選ばれた誰か、ではなくて

ともすれば不平不満に満たされがちな

私たち一人一人が追い求めていく

そんな時代であると思うのです。

そんな生き方、働き方が実現した暁には、

働くことは、もはや働くことではなくなる

そういうことかもしれません。

 

ー今回の表紙画像ー

『嵐の合間』凄い風と雲だったな。