目覚ましの耳障りな音とともに目が覚める。
眠い目をこすって
会社に行かなきゃと思うけれど、
どうにも体が動かない。
昨夜憂さ晴らしに飲んだ安酒のせいで
体は最悪の状態。
今日もまたいつものように
叱られるのだろうと
寝起きの麻痺した心に
鈍い疼きが走る。
体を布団から無理やり引っぺがすように
這い起きて、それでも会社に向かう。
出社しては見たものの、
仕事がどうにも手につかない。
やってることもよくわからない。
真面目に学ぼうとしても、
どうにも頭に入ってこない。
やりがいを感じるわけでもなければ、
その仕事で食べていこうという気概もない。
同期の中には、
バリバリと仕事をこなして、
早くも家族を養ったり、
家を建てたりしている人もいる。
こちらはと言えば、
ただ早く業務時間が終わることを祈り、
それでいて、アパートに戻っても
食べて眠るだけの生活…。
自分で自分が最低に思える。
電気回路の技術屋の端くれとして
仕事に愛着も興味もなく、
いつも明後日の方向に意識が飛び
よしなしごとを妄想しながら
毎日苦しくて仕方がない…。
まことにお恥ずかしい話ですが、
それが社会に出た頃の私の
正直な有様でした。
かと言って他に
好きでやりたいこと、
使命感でやるべきこと、
があったわけでもなく、
本当に苦しかったのも事実です。
自分で選択しておきながら、
何で言い草だろうとも思うのですが、
その頃に考えたいたことと言えば、
大学に戻ろうか、とか、
どこか別の国に行ってしまおうか、とか、
そんなことばかり。
それも、真剣に考えるならともかく
どこに行ったって同じだよ、と
やたらニヒリスティックになりながら、
実際には何も行動を起こそうとは
していませんでした。
何も成果が出せないまま、
半ば強制的に、
部署を代わり、
仕事を代わり、
研究から
商品開発、
生産管理、
マーケティングと
畑違いの業務に携わることが続きましたが、
どこにいても苦しさが募るばかりでした。
原家族の問題が重なったことも大きかった。
徐々に心が闇と混乱に占有される
ようになっていきました。
心理カウンセリングを受ける中で
自分が置かれた状況を皮膚感覚で理解し、
今度は自ら心理学・カウンセリングを
学ぶようになったのですが、
それと並行して、
自分と同じように多くの方が、
自分に適した仕事に出会えてなかったり、
自分に合った働き方を試すことを
あきらめていたり、
自ら労働環境を制限していたり、
行動を起こそうとして生じる
心のブロックに気づいてなかったり、
その原因すらわかっていなかったり、
その結果として、
無意味な方向に怒りを募らせたり、
自分を責め続けたりしている。
そういった場面に出会うことが度々あり、
苦しんでいるのは
決して自分だけではなかったことに
気づきました。
怒鳴られ、
嫌みを言われ、
長時間労働に苛まれ、
徐々に自分が何を求めていたのかも
わからなくなってくる、
そんな状態に悩む方々の話を聞くにつれ、
自分にできることはないだろうか、と
考えるようになりました。
仕事はいろいろ。
働き方は様々。
その根底に流れる生き方に至っては
それこそ無数にあります。
働き方も、
仕事の選択も、
自分の心の状態と深く関係するから、
自分の求める働き方や、
何をして食べていきたいかは、
自分と思い切り深く向き合うことで
見えてくるものですし、
それに必要な時間の確保が必要です。
そうやって、
一度は見失った自分と、
何を仕事にしてどのように働き、
そして何を求めて生きていくのか、
少しずつ自分の中で
明確にしていくのだと思います。
好きなことを仕事にすれば、
夢が叶えられる。
結構耳にする言葉のように思います。
個人的には、
そういう側面は確かにある、
一方で、それで解決するものでもない、
という感覚でしょうか。
心理カウンセラーの資格を取ってから
あらためて
サラリーマンだった父のこと、
夢をあきらめて専業主婦になった母のこと、
そして、
父と同じサラリーマンから始まった
自分の仕事の遍歴を振り返って
しみじみ感じるのは、
仕事、働くことを考えるとは、
実は多くの要素を含んでいる
ということでした。
ほんの一端ですが挙げてみると、
こんな感じでしょうか。
・好きな作業をできているか
・心底やりたいことか
・通勤は理想とどのくらい違うか
・自分に合う規模の組織で働いているか
・集団と個人どちらがいい?
・時間制限は必要?
・ノルマや納期は?
・愛着は感じる?
他にもいろいろあります。
『明日を支配するもの』は
ビジネス書として
多くのビジネスパーソンに読まれている
マネジメントの大家である
ピータードラッカー氏の著作です。
こう書くと、なんだかとてもガチガチの
ビジネスの話のことかと
感じられるかもしれませんが、
そんなことはありません。
氏は上記著書の中で、
レンガ職人を例に挙げ、
『教会を作っていると言えるか』と
述べています。
別にキリスト教の神に帰依せよ、
とか言っているわけではありませんよ。
念のため。
自分の日々の作業や仕事内容だけが
大切なのではなく、
その先にある達成目標が
『自らの望むものであること』も
大切だと私は解釈しています。
人によっては
これが一番大切という人もいるでしょう。
レンガを作ることに相当するのが、
何かを作ることなのか、
何かを演じることなのか、
個人で完結する仕事なのか、
数字では表せないことなのか、
特定の人々に影響を与えることなのか。
教会に相当するものが、
家族を幸せにすることなのか、
ガン患者を救うことなのか、
子供の頃に得た幸せな空間を
自分を見失っている人々に伝えることなのか、
森や川の自然を守り続けることなのか…。
自分にとってのレンガ造りは、
そして教会は何かを
一朝一夕でわかるくらいなら、
多くの人がこれほど
働き方や仕事で迷うはずもありません。
ですが、その答えのヒント、入り口が
必ずと言っていいほど、
自分の身近にあることがほとんどだと
思います。
私たちにとっての教会は、
私たちが愛着を感じたもの、
私たちが守りたいもの、
私たちが生み出していきたいもの、
私たちが求めるもの、
私たちが幸福を感じやすいもの
そんなところにこそ描くことができるから。
そんな観点から、
自分にあった働き方。
何をして生きていきたいか、
今一度、振り返ってみてはいかがでしょう。
ー今回の表紙画像ー
『ドライブ途中の青空』
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