笑う。
笑顔になる。
嘲笑ったり、冷笑したりではなく、
微笑むことが、
あるいは腹の底から大声で笑うことが
できるといい。
ほんとうにそう思います。
笑うことは、健康にいい。
笑うことは、気持ちがいい。
だから笑う、でもいいですが、
その前にただ、
そうやって笑うことができると
本当に幸せを感じます。
笑うといっても、
時にはその笑みが、
表に出ないこともあるでしょう。
ほくそ笑むこともあるし、
心が躍ったり
和やかになるような笑いもある。
笑うとは、そういうことです。
いつも笑っていられるわけでは
ないかもしれなません。
笑うよりも、
もっと何かに没頭したり、
集中したいときもあるけれど、
働いていて、
人と一緒にいて、
素直に笑うことができる
関係、
余裕、
成果があるということは
それだけ自分が
充実感を感じられていることの
バロメーターではないかと思います。
そんな時は、
おそらく、どうしようもなく楽しい。
反対に、
うまくいかないことが重なったり、
人から叱責され続けたり、
生い立ちのために
世の中そのものが信じられなかったり、
そんなこんなで
笑うことができなかったり、
人によっては、
生まれてこの方、
心から笑った経験はない、
そんなこともあるかもしれません。
笑う、可笑しくなる理由は、
人によっては
枚挙にいとまがありませんが、
笑うことができない、
心の底はいつでも苦しいだけ、
という理由もまた、
人によっては、
数多くあげられると思います。
笑うから楽しくなる、
という有名な研究成果があります。
顔の筋肉を笑う形にするだけで、
脳の中の関連部分が
楽しさを感じたときと
同じ反応をするそうです。
ずっと昔、
原家族の問題に
雁字搦めに絡めとられていた頃は、
私自身、
なんて馬鹿なことを言ってるんだと
スルーしていた話です。
うまくいくから、
楽しいから、
成果が出たから、
だから笑うんだ、
いや、笑えるんだ、
笑いにつながる感情は
何かの結果、
湧き出てくるものなんだ、
感情が先にあってたまるものか、と。
今もその感覚自体には
変化はありません。
ですが、今は、
笑うから楽しくなるという関係性には
ある種の真理もあると
理解もしています。
それはなぜか。
笑うことができない理由を上述しました。
私自身が笑えなかった頃、
自分の中で何が起きているか、
心の中をのぞいでみたことがあります。
そこには、
自分が思い込んだ、
笑うための条件がそろわない限り、
笑う心持ちになろうとしない、
とても意固地で頑固な状態で
あり続けようとしていた
私自身が居座っていました。
それは、気持ちの上では
とても共感する感情です。
この状態で笑うほど、
原家族に起こった出来事は
軽々しいモノなんかじゃない、
そんな気持ちがずっとそこにあって、
その状態で笑ってしまうことが、
家族一人一人に起こった不幸を
足蹴にする気がしました。
物事を俯瞰するには、
出来事を達観するには、
問題と感情を切り離すには、
まだ若すぎた、
あるいは経験が少なかった、
そう言う見方もあるかもしれません。
ともかく、余裕がなかったのでしょう。
私の事例はともかくも、
理由の如何を問わず、
笑うことができないことが
長く続いているような、
そんな状態の人に、
笑うから楽しくなるんだよ、
(だから笑おうよ)
と言ったところで
正直ピンと来るはずもない。
笑う、が、楽しい、に直結するには、
プロセスを経る必要があるから。
ただ、個人の特定の経験をもとに、
世の中は微笑むに値しないところだ、
という無意識の思い込みが続く限り、
笑うこと、楽しくなる状況は
まず訪れません。
せいぜいが、人の失敗を見て
嘲笑うような、
残念な形の、
自分自身で生きる力につながらない、
あまり味わいたくない笑いです。
全知全能とは無縁の私たちが
知らない場所や関係や出来事や
ちょっとしたおかしな小咄が
世の中にはいくつもあって、
そこには、
仏頂面で、不愛想で、
いつも不安にくるまれている人をも
笑顔にしてくれる“きっかけ”が
待っていたりします。
突然、楽しくなることは
概して多くはありませんが、
そんな“きっかけ”に接すると、
「あっ、何か違う」
「自分がこれまで見聞きし、
感じ、解釈してきたことと
違った世界がある」
「これはこういう理由で
哀しくなるはずなのに、
そうはならないんだな」
「誰かが、別の誰かを助けている」
そういった世界は、
少しばかりこれまでの思い込みを外して
批判の感情を脇に置いて、
流れに身を任せてはじめて、
見えてきます。
笑うことは、意識しましょう。
でも、無理やり笑おうとして
やっぱり心が痛いなら、
その力を、
自分がどうやって働くか、
どうやって生きるか、
どんな場所が必要か、
何を仕事にするか、
そういった方向に向けて、
正直に自分に問う時間を持てば
といいと思います。
無理やりというのは
基本的には良くない。
ただ、率直に言えば、
笑うことについては
私は多少の無理もあっても
いいと思います。
繰り返しになりますが、
笑うことが即、楽しいには
つながらないかもしれない。
でも、
笑うこと、
ちょっとだけにんまりすることで
今日一日を自分の足で
歩き通すことができるように
なるかもしれないのです。
なんだ、それだけ、と思われましたか?
私たちが生きる人生は
その繰り返しです。
そして、
今日一日を自分の足で
歩き通すことができると
確信するようになると、
それまで頑なに拒んでいた世界が
扉を開けて迎え入れてくれていることに
気づくようになります。
その時、自然に
自分にあった働き方、
選択する仕事が
見えてくるかもしれません。
私たちが欲することは、
気づいたら自然に笑っている、
そんな状態が日常化することです。
でもそれは、
与えられるものではありません。
与えられただけで、
その日常を実現している人は
一人もいません。
訓練というと
ドン引きされるかもしれませんが、
できている人は、
大なり小なり
そう言う文化を自分の中に
形成して生きています。
笑うから楽しくなるなんて、
という感情のちょっと横で、
さて、この、
くだらない、
馬鹿らしい、
あほくさい、
辛気臭い、
腹立たしい、
惨めったらしい、
哀しくてつらい、
状況を笑うことができるように
解釈できないものか、
1㎜でもそんな方向に気持ちが動けば
世界が変わり始めます。
私個人の経験則にとどまらず、
相談を受けた方の変化を見ても、
私たちが求めるものは、
こういった小さなことの
積み重ねの上に
築かれるものだと思うのです。
ー今回の表紙画像ー
『梅の花』
近所の散歩から。日が当たっていないので彩がいまいち。今年は少し早い気がする。
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