誰もが何者かである世界

日々の棚卸

 

小学生の頃の私の夢は、

GSのボーカルと野球選手になることでした。

 

GSのボーカルと野球選手は、

どちらか一方ではなく、

どちらにもなるという、

 

ちょっといけない妄想をしていた

子どもでした。

 

中学生になると諸々の事情から、

野球はサッカーに変わりました。

 

相変わらず、どこか抜けたところのある

子どもだったと思います。

 

高校生になる頃には、

そんな私でも胸が苦しくなるような

原家族の混乱が顕在化して、

 

夢どころではなくなっていましたが、

 

その反動というか、

そこからの跳躍を目指してというか、

何か世の中をひっくり返すようなことを

 

妄想していました…。

 

勉強するより妄想する時間の方が

長かったような気もしていて、

よく受験で大学に入れたものだと思います。

 

原家族の混乱を自分の未来に

取り込まないようにしようと、

 

そんなところ(妄想)に

逃げ込んでいたのかもしれません。

 

学生時代に原家族の離散が起こり、

心の混乱に苦しみながらも何とか卒業し、

周囲と共に大手企業に就職しました。

 

そして、人並み以上に?

 

社会人であること、

働く中で人といること、

自分が何者であるかということ、

 

と、

 

子供の頃から思い描いていた

どんな世界とも異なる、

自分の居場所を感じられない現実とのギャップに、

 

生きることの苦しさを

かみしめる日々が続いていました。

 

今の私を知る人からは

想像がつかないそうですが、

今も当時をありありと思い出すことができます。

 

それほどに過酷に感じていた時間でした。

 

 

子供の頃に、

次のような社会人になりたいと

考えていた人はいるでしょうか。

 

皆の中でひっそりと目立つことなく、

衝突したり喧嘩したりせず

難しいことをやらなくてよく、

 

叱られたり怒鳴られたりせず、

体がくたびれるまで働くことなく、

プライドを傷つけられず、

 

何かしたいことをするわけでもなく、

何か活躍するようなこともなく、

極端な話なほとんど何もせず、

 

大きな痛い目を見ることなく、

それなりの給料をもらって、

それなりの生活ができて、

 

それなりの人と結婚出来て、

それなりの安定した人生が送れて、

将来への不安も大きくはなく、

 

自分なりの健康が保てて、

自分なりの睡眠時間が取れて、

自分なりの栄養の行き渡った食事が取れて、

 

……。

 

これを仮に、『ささやかな望み』と

呼ぶことにしましょう。

 

そんな子供はいないでしょ、と

思われるかもしれません。

 

実際のところはわかりませんが、

少なくとも、私が子供時代の周囲には

居なかったような気がします。

 

では、社会人ならどうでしょう。

 

きっと混乱を抱える少なくない人が、

『ささやかな望み』を実現できたら、

と、思っているのではないでしょうか。

 

そしておそらく残念ながら、

今のままその世界を、

達成できることはないでしょう。

 

それはなぜか。

 

 

私たちは良くも悪くも

この世の中で何者かになっています。

 

何者かであるということは、

自分以外のもう一人の誰か、

あるいは社会の中の何かと、

 

関係しているということです。

 

仮に、天涯孤独で仕事も家族も済む場所も

なかったとしても、

社会の中のはあなたがいる。

 

実際に当ブログを見ておられる方は、

そこまでつながりが失われていることは

ないのではないかと思います。

 

つまりまだ、

何かのつながりを持っておられる。

 

ではなぜ『ささやかな望み』は

実現できないと言い切らざるを得ないのか。

 

それは、

『ささやかな望み』そのものにあります。

 

つまり、全ての視線が、

自分だけに向いているからです。

 

逆説的ですが、

全ての視線を自分に向けているというのは、

そうしたい無意識が働いているということ。

 

十分に自分自身をケアしてこなかった結果、

ということです。

 

ここでいうケアとは、

自分に優しくしてこなかった、

ということよりも、

 

自分の中に眠っている自分らしい資産を

ないものとして、

 

それらを活用して生きてこなかった

ということです。

 

当然ながら、本来得られるはずの

ドキドキやウキウキや感動といった、

自分を動かすためのパワーも機能しません。

 

決して、感じられないわけではないのです。

 

感じられない人ばかりではないけれど、

感じても十分に機能させるための“土台”が、

混乱と不信でズブズブに不安定のため、

 

底なし沼の上を歩くように、

全く先へ進むことができません。

 

 

いつも申し上げているように、

自分をしっかりと受け入れることができると

“土台”が安定してきます。

 

そこが十分足場となった頃には、

おそらくあなたには『ささやかな望み』は

必要なくなるでしょう。

 

『ささやかな望み』はあまりに

都合がよすぎる子供の世界だからです。

 

片一方で傷ついたり痛みがなかったり

ということを求めつつ、

 

自分のプライドや安定した生活を

得られる世界が、

どこかに用意されている、

 

という世界は、

親に守られた子供の世界です。

 

そこは大人の私たちがいても

決して居心地は良くありませんし、

実は何より、不自由です。

 

自由なんです、私たち。

 

ー今回の表紙画像ー

『町の影絵』

町の影絵が美しい季節になってきました。