当ホームページの題名にも使用している、
かけがえのない、という言葉。
使い古されて、
ありきたりで、
軽くなってしまった感さえあって、
巷のとりとめのない文章の中に
ちりばめられていた日には、
誰もがスルーしてしまうような言葉。
私もかつて学んだ
心理とか精神医療の学習の中でも
使用されていましたし、
宗教や自己啓発のセミナーなどでも、
結構な割合で
使用されているそうです。
夢、希望、未来、幸せ、愛…
もちろん当ページでも、
大切に使用させていただいています。
とても抽象的で、
ある種のきれいごと的な表現で、
年齢を重ねるにつれて
胡散臭く感じられ、
信じられなくなり
いつしか彼方に見え隠れする篝火のごとく
自らの人生とはかけ離れてしまった
あるいは遠ざけてしまった
それらの言葉に込められた意味。
受け止めてほしい意味。
そんな言葉たちについて、
少しだけお話しさせてください。
コロナ禍で続いていた自粛期間が
先月末に解除されて
3週間が過ぎました。
外出しやすくなり、
人との物理的な距離を近づけることが
これまでよりは許される気がして、
この数か月の間に広まった
新しい変化を受け入れながら
心身をオープンにして
日常を生きていくことを期待している方も
多いでしょう。
私もまたその一人です。
一方で、
ゴールデンウイークを挟んだ自粛期間に
会う人の数が極端に減ったにもかかわらず、
全く苦にすることなく生活された方も
そこそこいることと思います。
ボクは、
家族と隣近所の近しい人々と
日々顔を合わすことができたら、
後はリモートで話せればいいや。
ワタシは、
たまに家族や友達と電話で話せれば、
後は一人でもいいや。
自粛期間中、誰とも話さなかったけれど、
ネットでコミュニケーションとれたし、
それでいいや、
という強者もいらっしゃる。
ここまでくると、私には負担だけど、
人それぞれのようです。
中には、学校や会社に行っても
いじめられるだけだから、
これを機に引きこもっていた、
そういう方もおられます。
ここでも書きましたが↓、
https://nakatanihidetaka.com/town_nature/
今回のコロナ禍は、
健康な大人同士が
互いの都合がつくときにさえ
会うことができなくなった
(憚られた)
おそらく史上初めての出来事だった
と思います。
先に人それぞれと書いたように、
その人ごとの境遇によって、
自粛期間に会うことができた人は
限られていて、
中には誰とも会うことができず、
しかもそれが苦痛で仕方がなかった人も
おられました。
コミュニケーションの機会を
完全に失ってしまった…
そう聞いたこともあります。
違和感を感じたのは、
私がこんな発信を続けている
せいなのかもしれません。
確かに、
今回の自粛によって、
コミュニケーションの機会は
激減したと思います。
0になってしまったと言われる方も
いるくらいですから。
ですが、
たとえどんな状態であったとしても、
一つだけ、失っていないことがあります。
避けられないこと、
と言ってもいいでしょう。
その通り!
それは、
自分自身とのコミュニケーション。
自分と接することです。
どんな生活をされていたとしても、
日々自分との対話は避けられませんよね。
対話しているという意識がない方でも
体の感覚によって
自分を気持ちよくするようにしたり、
休ませたり、
きつくあたったり、
その人ごとに様々なコミュニケーションを
とっているものです。
うつ病や統合失調症などの病を患っていて、
自分との関係性を
内側まで離断してしまわれていると
思えるような場合でさえ
人はそういった独自の世界の中で
自分自身とコミュニケーションを
はかっています。
自分自身と接すること。
それはそのまま、
自分が自分をどう見て、
どう扱っているかということを、
日々確認していることでもあります。
口から放たれる言葉も、
態度や表情も、
普段の行動も、
すべて
自分との接し方が
バックグラウンドにあって
それに従って表現されるものです。
笑っていてもどこか近寄りがたい、
とか、
悲しそう、
とか、
息苦しい、
とか、
そう感じる人、きっと身近に
おられるのではないでしょうか。
私はそういう方を
身近に見た経験が何度かあるし、
自分自身もまた一時期は
そうだったのではないかと
受け止めています。
かつての私が、
あるいは、
あなたの周りにいるそういう人が、
さらには、
もしかしたらあなた自身がそうであるのは、
そうなる理由があったからだし、
それを批判したり責めたりしたところで
何の解決にもならないし、
誰のためにもなりません。
ただ、
これも一つだけ言えることがあって、
そういう状態の人は、
いつも述べている
かけがえのない自分
という言葉で代表される、
あなたにとっての大切な想いとか
夢とか、希望とか、欲する未来とか
そんな世界を求める生き方の対極にある、
とまでは言いませんが、
大きくかけ離れた生き方をしていて、
そこには先に述べた
夢とか希望とか未来とか
そういった言葉を信じて心や体に与え、
『体現』しようとすることを、
あきらめてしまっている、
そういうことだと思います。
かけがえのなさ、とは何かといえば、
これもいつも言う通り
あらゆる自分を受け入れて生きる
自分自身のことだと私は考えています。
とても自然体で、
それでいて無理に取り繕う自分までをも
大切な自分の一部として生きている、
ある種の矛盾を包含して、
それをも受け入れて生きる自分自身です。
あるレベルの矛盾は、
上位のレベルでは
矛盾でもなんでもなくなりますからね。
今回は、そんなことを考えてみました。
ー今回の表紙画像ー
『横浜港 SOGO-MARUI連絡通路より』
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