1.要約
コロナ禍というパンデミックな状況で、旅行にも行けず、長期間家に閉じこもることになって考えたこと。
2020年の初め頃から、コロナウイルスという存在とともにメディが状況を報道するようになった。家族がいるイタリアは中国の次に感染者が増加した国である。メディアの報道によれば日本の感染者数は非常に少ない。日本は感染者数が少なすぎるだろうと言うのが家族の主張。「日本の報道では…」と口にすると、報道はある部分を切り取っているだけだと文句の嵐。中国、韓国で感染者数が増えているのに日本では少ないというのは考えにくい、オリンピックを控えて数字を抑制しているのではないか、そんな意見。
コロナ禍という現実におけるイタリア及び欧州と日本を比較しながら、リーダーシップや今私たちが置かれている状況とこれからについて、為政者や国民の在り方、芸術などの観点から考えてみた。そして、今だからこそわかる、大切なこと、必要なこと、今だからできることについて述べてみた。
コロナ禍で旅行もままならず、移動が制限されている今だからこそできることがある。例えば、人としての機能を鍛えたい。動植物や昆虫は生まれた時から備えている機能を100%生かして生きているのに対し、人は知性をどこまで駆使しているのだろうか。東大を卒業して一流企業に就職しました、ではないが、自らの思考力という機能を甘やかし、怠惰にし、そんな中途半端な状態でも、自負や虚栄で自分を固めて生きている人が多すぎる。
こんな時には、自家発電をおすすめする。手間のかかる料理を作り、普段できない読書や見られない映画を見る。再読、再鑑賞でもいい。「生きる」「真夜中のカウボーイ」「東京物語」「自転車泥棒」など往年の作品を見直して、今一度この状況下で生きることにつながる大切な力を見つけていきたい。
安倍公房や小松左京などの作家は、日本の文化の熟成の中で出てきている。戦争という理不尽な体験を通して、多くの人が避けて通ろうとすることに向き合い、吸収したことで、あれほどのパワーを得たと思うし、不条理のもとでしか育たない感性があった。サザエさんの長谷川町子やゲゲゲの鬼太郎の水木しげるなども同じだ。人生なんて思い通りにいかない。そんな中を生き抜いてきた力強さ。そういう意味で、今は自分の根幹を強くする時期ではないか。
「何かを生み出し、表現することを生業としてきている人たちは、生きてきた過程の中で、逃れようがなかった辛さと向き合っていたことが少なからずあるものです」
そういった経験のもとに生きてきた人々を思い出すと、皆どこかで人生は思い通りにはいかないものである、ということに達観している。それは昭和一桁生まれの自分の母をしてもそうだ。
現代の日本(私は先進国全体と考えるが)は「不条理」をはじめ、「失敗」も「屈辱」も生きていく上で必要のないもの、知らない方がいいもの、という社会環境になっている。でもそれは、人間が本来持っている強さや臨機応変性や適応能力を脆弱にしている。様々な事情で計画通りにいかなかったときに、自分を恨むことになるかもしれない。どんな顛末だってあり得ると知れば、もっと楽に生きられる。
漫画家風情が、といわれることもある。民主主義は参加することに意義があることを考えると、この状況は異質。西洋化の歪みがもたらした影響の中に、未だ日本はいるのかもしれない。世界の面白い情報は欲しいし、ある種のグローバリゼーションは必要だけれど、島国としての社会性を弱めるほど満身創痍になってまで受け入れたくない。(皮膚感覚まで浸透させて)理解するのにエネルギーを要するような異質性は基本的に要らないし排除した。そういった感覚が日本にはあるのではないか。
そんなメンタリティのもとで「特異性をメリットとして受け入れる」西洋式政治システムで統治しようとする矛盾。
これが時間の経過の中で、日本独自の安定と調和を生んでいくのは、自分が生きているうちには難しいかもしれない。
そんないくつもの矛盾や西洋式による胡散臭さを日本独特の仕様に合わせるためには、裸足になる必要がある。もう一度、明治の頃に取り込んだことの中で、受け入れられるものとそうでないものを考慮する時期に来ているのかもしれない。
そんな中で、必ず生じる不安と言うものを早い時期に言語化しておくことは大切だと思う。何でもデジタル的に考えて買いを導こうとするデジタル脳はとても危うい。実際に経験する数を増して応用することをもっと行っていった方がよい。
お金ほど頼りにならないものはない(同感)。いつまでも個人としての自由や判断を抑えて、群れに身をゆだねたまま生活することで、ウイルスによる集団感染の可能性が高まる。この状況は、私たち一人一人に人間の習性や性質、ビジョンなどを問いかけているように思える。
2.著者について
ヤマザキマリさんは、ご存知『テルマエロマエ』の原作者だ。イタリアルネサンス時代の人物を漫画に描いたかと思えば、幼少期の懐かしい思い出を作品にしたり、料理番組やバラエティなどにも登場して独自の見解を述べておられる方だ。
幼少期に指揮者の父親が他界、ヴィオラ奏者の母親と異父妹と北海道で3人暮らし。母親が演奏者としてあちこちを飛び回っており、家に帰っても寂しかったため、川や山などの自然の中で遊んだという。
絵が好きという娘に母親が進めたイタリア留学、17歳で渡欧、以降しばらく極貧の生活を送る。この時に巡り合ったサロンでの人々とのディスカッションはかけがえのない財産だと言っている。留学してしばらく後に付き合い始めた隣室の詩人との間に男児を授かる。その詩人とは妊娠中に別れ、シングルマザーに。男の子はデルスと命名。黒澤明の有名な映画『デルスウザーラ』の主人公に感銘を受けたため。
2008年2月、『テルマエロマエ』発表。後に、マンガ大賞、手塚治虫短編賞などを受賞し、阿部寛主演で映画になっていることは有名。
なお、この作品と同時期、幼少期の思い出を『ルミとマヤとその周辺』として発表している。楽しく温かい感じの作品であり、彼女の世界を形作る土台がどんなものかを見せてくれている。私が最も好きな作品の一つだ。“その周辺”なんて、なんといい加減で(?)素敵なネーミングだろう。
3.気づき
ヤマザキさんはこれまで10冊以上のエッセイを親書で出されているが、どれも面白い。比較文化論という学問領域が専門にあるのかは知らないが、イタリアと日本という2か国でもっとも多感な時期を暮らし、以降もポルトガルやアメリカなど様々な地域で過ごした時間をもとに、皮膚感覚で吸収した数多くの経験から述べる見解は、感情と論理を見事に融合した一貫性が感じられる。加えて、きっと辛酸をなめるような苦労も多々あったろうが、彼女の文章や作品にそういった恨み辛みが垣間見えることはなく、どこか訥々とマイペースで自分らしく日々を生きていっている感があり、とても共感が持てる。全く同世代の、半世紀を日本で文化に揉まれることなく生きてきたおじさんも見習いたい姿勢・心の持ち方だ。
要約には記載しなかったが、以下は、なるほどと思った二つのことについてだ。
1つはルネサンスというものついての考え方。もう1つは自分についての慰め方だ。
疑問もある。それは成熟についての考え方だ。
まずはルネサンスについて。
エッセイでは、コロナ禍で大きく様相を変えた世界を俯瞰した上で、報道姿勢や人の在り方を文化芸術と絡めて意見を述べている。
武漢で発生し、中国国内に広がったウイルスが次に大手を振ったのはイタリアだ。要約にも記載したように、日本で報道された感染者数が少ないことに対して、報道をうのみにすることの危険性を示唆するとともに、行動を呼びかけるヨーロッパ各国のリーダーの在り方、芸術への支援、説得性など、日本の曖昧さとの対比しながら、聞く側として納得できるという。
もともとペストなど疫病の流行による深刻なダメージを経験しているヨーロッパでは、日本とは人々の考え方も行動も異なる。一方、こういったパンデミックで“理不尽”な死者の増加により人々が追いやられる状況のもとでは、日常とは異なる人々の大きなルネサンスが起きえるという。実際、ヨーロッパの歴史を振り返ると多くの場合、こういったパンデミックの発生後、人々の本質的な意識改革とともに、ルネサンスの息吹が芽生えているのは確かなようだ。人生には何が起こるかわからない、そういった理不尽な状況を潜り抜けてきた人々が、理だけでは表現しきれない表し方を世に新しく問うているということだ。ヨーロッパ各国のリーダーたちが、この状況下で熱心に芸術の支援を打ち出している理由はそこにあるそうだ。
ここでは日本のリーダーの曖昧さを批判しているが、それだけでは個人的には今一つ納得いかない。そう思いつつ先を読んでいくと、あまり物事を突き詰めて考えているようには思えない現代日本の状況に対して、自分の頭で物事を追及できなくなったときに何が起きるかはナチズムやファシズムを見ればわかるはずだ、としている。そして、安倍公房(彼女は大ファン)や小松左京など、第二次大戦後の日本で映画や音楽や物語など様々な新しい作品が生み出されたことを例に挙げ、この時期だからこそ、充電期間としてこれまではできなかったことを行いながら、一人一人の中にルネサンスを起こしていくことの必要性を説いているところまできて、何を言おうとしていたのかがよくわかった。ルネサンスとまでいかなくても、確かに個々人の中に変革は欲しいし、東北大震災の時もそうだけど、このような状況だからこそ気づくことができる日常の有難さ、そして生きる道筋が明確になることはあると思う。明確になるということは、意識がそちらに向き、必然的に自己が変わっていく可能性が芽生えるということでもある。
続いて、慰め方の話。
パンデミックであらわになる自分というものを、日常から離れた時に見られる頼りない、滑稽で、時に惨めな自分というものと重ねている。成田離婚しかり、今回のパンデミックしかり、突如あらわになるそういった自分というものに対して、本来自分という人間は格好悪いものだということを恐れて、疑似体験の中に閉じこもってしまうことなく、行動し、受け入れていく大切さのようなものを独自の例を挙げて述べている。
曰く、留学間もない頃、とある店で彼女に振られて傷心のイタリアの青年が酒を飲みながら自らを慰める場面。「格好悪くても傷心してダメダメになっても自分で自分を慰められるなんて最強だ」というくだり。身に着けられるといいなと素直に感じられました。自分のみっともない部分は誰もがそれなりに知っていて、それを出さないように、見なくて済むように、普段から遠ざけておき、それによって多くの人が本来の自分の強みともなりうる一体性を放棄しているように私自身を含めて感じられる。そんな自己ほど、何か窮地に追い込まれた折にこそ力を発揮しうる、もっとも遠ざけてはいけない存在で、普段からそんな自分を見出し、受け入れることを繰り返しておくことが必要になる。
一方、成熟の考え方については微妙な違和感を覚えた。
為政者に必要な弁証性、弁論術を取り上げている。日本でこの言葉を使うと若干詐欺っぽく聞こえるが、ヨーロッパにおける教養であり、人々を安心させ、説得し、何を述べているかを正確かつ簡易に伝えるために必要な能力であるという。ここでは特に、ドイツのメルケル首相が行った演説を取り上げ、ディスプレイを通してドイツ国民に語り掛けた言葉の選択や論理、態度に触れ、為政者に求められる言葉の良い例として挙げている。これは実際、日本のメディアなどでも取り上げられており、テレビでご覧になった方も多いだろう。コロナ禍の国民の行動を理に則り規定し、説得する様がドイツ人一般の人々にとってお母さんの呼びかけのような説得性があったと報道されていたことは記憶に新しい。
彼女は、文化芸術を蔑ろにして文明は成熟しないし、人はどんどん脆弱になっていくことは歴史が物語っている、ドイツの文化大臣はいち早く、芸術支援の方針を表明した、として評価している。
これらと対比して(とは書かれてないが)、「不要不急」の「お願い」に見られる日本の曖昧さを取り上げている。一見、為政者への苦言という見方もできなくないが、為政者を選択するのは私たち日本の国民であることを踏まえれば、この話は日本人全体を指している。この曖昧な対策をして、ヨーロッパ人には幼稚に見えるということだ。そういう意味で日本人の幼さは500年前から変わっていない。西洋式の民主主義の元では、ちぐはぐな作用を見せてしまっているように見える、と。54ページの最初に、「為政者には、曖昧な言葉よりはっきりと現実を伝えてもらった方が、……自己責任という意識も強くなる。……自主的な危機意識を持った行動がとれる…」というくだりがある。
私には反対に、このようなことを求めるとすれば、それ自体が成熟していない国民性の現れと受け止めてしまう。行動を規定することを求める意見を悪いとは思わないが、これを成熟の指標にするのはいささか暴論のように聞こえる。その方が個人的にやりやすいとか好きとか言うなら話は別だが。特に、実利を重んじるのが日本人だと私は考えているので、より少ない死者、より少ない感染者というのが、国民性や文化をも含めて、国民及び為政者としての価値だとすれば、どれほどリーダーが雄弁だろうが結果がついてきていないヨーロッパの現実をして成熟というには、無理があるように感じられる。
いかがだろう。確かに初期のPCR検査のあまりの少なさについては、胡散臭い部分があると感じたことはあるけれど。
…エッセイを要約するのはどうも不得手だ。
特に、ヤマザキさんのような頭の回転が速い方がうまく話をつなぎながら、縦横無尽に語りつくす内容をどのようにまとめて伝えたらいいのか混乱してしまうからだ。多分に自分の頭のキャパシティの問題なのでご容赦ください。
そういうわけで、必然、自分の興味のあるところ、意見を言いたいところがピックアップされる。まあそもそもエッセイというのはそういう質のものであるといえばそういうものだろうけれど。
いずれにせよ、彼女の論に対しては、毎回賛否あるけれど、そういった議論のベースとなるような考えを、ユーモアを交えて提起してくれていると思う。
4.おすすめ
ダイバーシティと言わずとも、多様な生き方、多様性を自分なりに感じ、ヒントを求める方にはおすすめです。また、各部で批判批評を述べながらも、そこには根底に生きることに対する面白さ、肯定感が感じられる読後感です。ちょっと休憩して、文字を通して人と接したい気持ちになった時に、手にしたくなる一冊です。
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