年を取ってもう元気が出ない・・・?

日々の棚卸

30歳、40歳になると、18歳のころのような

肉体の回復力はなかなか望めないものです。

私は50歳になってもジョギングをしているので、

5㎞や10㎞くらいは普通に走るけど、

同じ距離を同じタイムで走ろうとすると

若いころに比べて

“余力”がなくなっていることに気づきます。

この場に何度も登場してもらっている

四半世紀前の自分の場合、

当時は毎晩お酒を飲みながら、

毎日ジョギングもして、

時には会社のサッカーの試合にまで

参加したりしたものですが、

それでも翌日に疲労を残したことは

全くないし、

例えば、ジョギングの場合なら、

1時間もすれば心拍数は平常に戻りました。

100回のスクワットと

50回の腹筋と腕立ては毎日の日課で、

多少熱が出ようが、

酔っぱらって帰ろうが行ったし、

昔はテレビを見ながらすれば、

気づけばいつのまにか終わっていた

という感じだったけれど、

今はちょっときつくなり始めている。

 

ああ、体は衰えるんだなあ、としみじみ。

 

妄想の世界も含めて変わらないのは、

筋力くらい。

あまりつけすぎるのも何なので、

こちらはほどほどにしていいます。

 

以前とある集まりに出かけたとき、

そこで知り合った方から、

ストレッチ・柔軟体操、そして

姿勢の良い生活を続けるだけで、

立派な運動だといわれたことがあります。

確かにそれらは、

筋肉を伸ばしたり、支えたりする、

という意味では、

ある種のライトな筋トレと言えなくもない。

なるほどな、と思う反面、

ひいコラ言わない程度の有酸素運動が

体のメンテナンスに有効だとも確信しています。

 

いずれにしても、20歳前後が境だと思いますが、

肉体は死に向かって

長い衰えの時間に入ると思います。

普段なかなか意識しないのは、

そういった衰えを感じるほど

体を使う必要がなくなったからだと思うし、

それほど頻繁に衰えを感じざるを得ないような

生活をしていると、

寿命が早まるとも思います。

昔の人は良く歩いた、とか

良く働いた、とか

いろいろ言われることはあるけれど、

それは他に方法がなかったから、

というのもあるだろうし、

衛生面と合わせて、

寿命に影響していたと思います。

 

肉体と異なるのは心、魂です。

体と心は互いに影響しあっているから、

あまり切り離して考えるのはどうか、

とも思うけど、

「もう○○歳だから、できない」

そう言われるたび不思議に思います。

意外に多い発言なので、

そうかなと思ったこともあります。

自分にもそんな時期があったのは事実ですが、

今になってその理由を考えると、

勘違いしているのだな、としみじみ感じます。

もちろん求める程度にもよるし、

何をするかにもよるのは事実。

誰もが何らかのスポーツで年を取ってから

日本代表になれるとは限らないし、

何かに熱中したら、無理がきくのは

やはり若いうち。

 

でも、明らかに関係ないことにまで、

年齢を言い訳に持ち出すことは多いものです。

「もう○○歳だから…」

「いやいや、それするのに年齢関係ないでしょ。

肉体的に厳しいわけじゃないし」

「昔からやっている人にはきっとかなわない」

「じゃ、いくつくらいからやっていたら

よかったの?」

話がだんだんと不毛な方へ向かいだします。

 

何度も述べてきたけれど、

私は原家族がこわれることと、

肉親の自死とを経験してきました。

2人目は何とか助かったけれど、

それを含めてつらかった。

そのつらさをきちんと受け止めて、

自分の一部とできるまで、

どこかでその経験を

・何かができないこと

・何かがうまくいかないこと

・何かに踏み出せないこと

の免罪符にしていたことは否めません。

その時期が必要だったから

そうしていたのだと思います。

その時期の自分を批判することは

まかり間違ってもあり得ないし、

あれはあれで

自分の熟成にはためになったと思います。

しかし、その発想、

つまり自分がやっていることが

免罪符という欺きであるということを

最初から知っていたら、

もう少し早く動き出せていたと思う。

もっとも、そんな洞察がなかったから

一時的にせよ、陥った時間なのだけど。

 

元気が出ない、という感覚。

これはきっと本当のことでしょう。

気力がわかない、と言いたいのかもしれない。

実際、

自分を蹴飛ばして動き出したところで、

別の免罪符を求めるようになるだけです。

でも、元気が出ない、

は元気を出したくない、でもあると思います。

それをぐるりと裏返すために、

元気を出せる自分がいない、ということで

自分を受け入れる必要性が見えてきます。

その必要性を満たすことを考えて、

その思考が自分に向けて有効に働くと、

つまり今の自分の状態を作っていることとの

関連性に気づくと、

自分以外の他者やシステムに対して

文句を言う労力がもったいなく

感じるようになります。

自分が自分で変化できることが

身にしみてわかるからです。

自分が自分で求める自分になり、

自分が求める世界に向かい、

自分が求める未来を実現できる、

という確信に気づくようになるからです。

この領域に、年齢は関係ありません。

 

年齢のせいで何かができないと思うなら、

考えてみてください。

私自身もそうだったけど、

あの頃だって、あの時だって、

ずっと元気なかったじゃん。

ほんとは、年齢なんかじゃないでしょ。

怖いんでしょ。

何かに縋り付いていたいんでしょ。

あの時の自分に対して厳しく伝えるなら

そういう言い方もできます。

 

同時に、

当時の私が直接そう言われたら、

思い切り反感を感じる物言いというか

表現でもあります。

だから、この一連の駄文で気づいてくれると

とても嬉しい。

自分にとっての事実・事情を知ること、

そしてその自分を受け入れること、

自分の一部とすること、

これを繰り返していくことで、

年齢の言い訳は必要なくなります。

だってやってみて、できないことはできない、

それだけだからです。

そして、

ただ、怖いのだ、と気づくようになる。

怖さ、恐れること自体は

何も恥ずかしいことじゃありません。

若さの勢いに任せて物事を推し進めるのが

悪いわけではないけれど、

人は必ずこの恐れにたどり着きます。

それを消化する過程で、

恐れは畏れに変わり、

変えられないものと戦うのではなく、

変えられる自分に焦点を当てて、

行動するようになります。

このプロセスの中で自分を取り戻し、

世の中で自信と言われる感覚も

少しずつ醸成されていきます。

感じた恐れがたまたま別の出来事、

私なら家族や肉親の自殺の問題を持ってしまって、

それとすり替えてしまうことがある、

ということに注意してくれればと思います。

そうやって、生きる時間の中であがくことは

学びを得るために大切ではあるけれど、

望むらくは短い方がいい。

とてももったいない。

 

率直に、真摯に、自分を見つめれば

やれることをやるだけだと気づきます。

気づいた時が踏み出す時です。

年齢は、関係ありません。

 

ー今回の表紙画像ー

『散歩中のマンション施工音に振り返って見上げた空は青かった…』