満たされた自分とつながった感覚

日々の棚卸

時々、朝の散歩をします。

時間はまちまちで、コースもまちまち。

天気によっては行かない日もあるし、

起きた時間や体調によっても異なります。

元来が寝坊助で、

放っておくと昼まで寝てしまい、

昼夜が逆転しかねないので、

多少眠い時でも目をこすって

起きるようには心掛けています。

ほんとに疲労してたら寝入ってしまうけど。

これを書いている朝は、

それとわからないくらいの霧雨が

かすかに舞うように降っていて、

歩き出してしばらくボーっとするうち

顔がひんやりと冷たく感じで気づきました。

睡眠は疲れを取り、

意識の整理にも役立ちますが、

動かずにこもっている状態でもあるわけで、

目が覚めたといっても、

体はまだ眠っています。

なので、

歩き出して、

体の細胞が活性化しだすと

体内のこもった空気が入れ替わるような

すがすがしさを感じます。

そして、のんびりと歩くうち、

眠気が覚めるとともに

ほっとした感じになって、

少しニュアンスは異なるけれど

ジョギング後のクールダウンで

体が落ち着いた後の安定感と

似た感じになっているような気がします。

 

満たされている感は

運動と直接リンクしている

わけではないと思います。

いつも大笑いしている必要もない。

いつもとは言いませんが、

感じられる人は感じられることを

知っています。

 

大人になると特にそうかもしれませんが、

働くにしろ、

家事育児にしろ、

どうしても、

時間と責任

この2つに追われることになります。

そんな日々のあくせくの中で、

つい余裕を見失いがちで、

そこに湧き出す自他への批判が増幅すると、

満たされ感はどこかに行ってしまいます。

普通に生きていてもそうなのに、

人生への行き詰まり感や

絶望感を

抱えた方々に至っては、

何をしてもどこか、

虚ろ、

胡散臭い、

空々しい、

などと感じていることもあって、

満たされた感覚は

既に遠い存在になっているかもしれません。

安心して落ち着いた感じも

そこに当たり前にいることが当たり前

という感覚以前の感覚も、

感じられない。

もちろん楽しさや充実感など、

かけらも得られない状態。

それは裏を返せば、

あなた自身があなたの中に実は存在している

満たされた自分と繋がってないから。

 

そんなもんない!

そう聞こえてきそうです。

そんなの絶対にない!

そうですか…。

 

私もまたそんな感じでした。

そんなもんない!って。

そんな自分、どこにいるんだって。

 

今振り返ると、

たとえあったとしても、

認めてなんてやるもんか、と。

そうしないと、

今既におかしくなっている

自分が存在するこの世界が、

さらにおかしくなってしまうじゃないか、と。

 

満たされた自分とつながった感覚。

別の言葉で言えば、

自分が自分であることで十分である

ということ。

考えてみれば

不思議な感覚ではないでしょうか。

自分が自分であるということは、

いつも言うように

あらゆる自分自身を受けれている

ということですが、

当然その中には

自分とは良い関係の自分であっても、

自分以外とはうまくつきあえない自分もいて

そんな自分も受け入れるとしているわけです。

例えば。

会社の仕事でミスばかりしている自分。

ミスを注意されてむかっ腹を立て、

ふてくされている自分。

悔しくていつまでも引きずる自分。

それにもかかわらず

出来るようになろうと思わない自分。

人と交わることができなくなる自分。

あるいは、

友人からの嫌味にいつまでも

うじうじしている自分。

それが高じて、恨みを募らせる自分。

やがて孤立してしまう自分。

それでも自分の非を認めない自分。

さらには被害者を演出して相手を悪者に

仕立て上げようともくろむ自分。

 

自分がもう一人の自分として

そんな自分といたら

ちょっと待ってくれ、と

距離を置きたくなりかねない、

そんな自分たち。

 

でも、正当化に走ることなく、

そんな自分たちを

丸ごと受け入れることを

繰り返し続けていると、

それまで漠然と持っていた

不安や罪悪感が薄められていったり、

見ないようにしていたものが見えてきたり、

新しくも懐かしい感覚が芽生えてきたり

ということが起こります。

 

どれも

かつて自分の中にあったものですが、

それらがまた自分の前に現れてくるのです。

そして、自分の中に余裕が出てきます。

自分の中に余裕が生まれ、

自分を受け入れ続けると、

同じように未熟だったり

反感を持ったりしていた周囲の人々や

かつての出来事などを

許せるようになったり、

どうでもよくなったり、

自分が理解してもらえなかった想いや善意を

実は別の形で

相手も見せていたことに気づいたり、

気づかないまでも

見せていたのかな、

と思えるようになるわけです。

それは決して、理屈でそうなるわけではなく、

自分の変化に従って、

そう受け止めることが自然な流れだと

感じてそうなるのです。

 

そうやって、

自分としっかりつながった自分が

他者や社会や自然に対して、

これまで持っていた

不快な感覚が薄らいでいくと、

見えない世界の闇の部分を

無理やりかき分けてでも

動いていく必要を感じなくなります。

言い換えれば、

焦りとか失望を動機に

無理やり動くことを感じなくなる

ということです。

 

すると霧に煙っていた世界の中で、

なんだか自分は許されて、

歓迎されて佇んでいるんだと

感じるようになります。

霧は、

ほんとは目の前にあるのに、

見ないようにあなたが作り出した目隠しで、

やがてタイムラグを経て、

霧が取り除かれていくと、

そこには

過去や今の自分がかかわった

素敵なシーンや

大切な自分そのものが、

社会の中や人々ともかかわる中で

感じられるようになって、

何かをしなきゃという強迫性が

去っていきます。

 

自分は満たされいるのだ、と。

そう感じるようになるときです。

 

ちょっとだけ、満たされ感を探してみませんか。

 

そんなもんない!

いえ、

そんなこと、なくはないです。

 

人生は物語だとよく言われます。

私はそれでいいと思います。

その物語はすべて、

自分が生み出していると

理屈を超えて感じられるようになれば、

今のその

そんなもんない!

と感じている世界もまた

自分が自分にそう見せているだけだと

思えるようになります。

 

あなたの作った物語が、

思い切り顔をそむけて見ないようにしてる

そんなストーリーならば、

そろそろおわりにしましょう。

 

ー今回の表紙画像ー

『朧月夜 大磯の港2』