立国は私なり、公にあらざるなり

日々の棚卸

立国は私なり、公にあらざるなり。

標題は、慶応義塾大学の前身、

蘭学塾の創設者でもある

幕末の武士、福沢諭吉が唱えた言葉です。

 

立国という国の成り立ち(成り立たせ方)と、

私たちの恢復、

かけがえのない自分を生きること

それらのつながりについて考えてみると、

意外に自己肯定的な意味合いを持つんだな、

その意味合いを自分なりに理解した時、

そう感じました。

自分のやりたいこと、

自分が試してみたいこと、

自分がやろうと決めたこと、

それらを実行することとの関係。

今回はそのことに触れてみたいと思います。

 

一応言っておきますが、

決して、

国に尽くせ、

などという話ではないです。

 

さて、

立国は私なり、公にあらざるなり。

これはどういう意味か。

まずここから入りましょう。

立国は私である。公ではない。

立国、つまり国を作るということは、

私の(想いに基づいた)行動である。

そういったいくつもの行動の集積の結果が

国を作るということである。

決して、

(最初に)公の何か決まり事があって

そのために生きるということではない。

そういう意味です。

もちろん、

人殺しとか、

窃盗とか、

何をやってもいい、

ということではもちろんありません。

 

ともかく、

幕末から明治にかけて、

岩倉使節団の一員に加わり、

国民国家として世界中に進出していた

ヨーロッパ列強を巡りながら知覚した

諭吉なりの結論として、

標題の言葉が

『痩せ我慢の説』に記載されたのは、

決して偶然ではないでしょう。

当時の列強の世界進出は、

そのまま帝国主義として、

今に至る国家間、民族間の遺恨を残す

悪しき側面もありましたが、

同時に、

それまでは

身分の差だったり、

性差だったり、

出身地の違いだったりで、

自分の人生はおろか、

命にさえ決定権を持てないまま、

極貧の暮らしに甘んていた人々が、

国民という新しい地位で、

未知の世界への恐れや

漠然と夢見る未来と格闘しながら

個々人の考えや洞察に基づいて

自分の生きる道を一人一人が模索し

自分の意志で実践していく、

そんな時代と集団を

結果として、

作り上げることになりました。

 

そこには当初、戦争を見据えた

富国強兵という国家(の支配層)の

目論見もあったでしょう。

21世紀の現在に至るまでには

差別や衝突が数多くあったし、

権利や自由を得たが故の

悲惨な出来事もまた多々ありました。

今もまた世界のあちこちで

いざこざが起きているのは確かですが、

それでも、

今の時代になって言えることは、

一定の義務と権利のもとで

国民一人一人がパフォーマンスを

最大限に発揮して

その集積というか、つながりを

大きくし、

柔軟性を持ち、

そして活発な新陳代謝が行われる

ようにする、

それが、国と国を構成する国民の

多くが富む最良の方法である

というところに落ち着いている

と思います。

富む、ということは

弱者を救済する手段を獲得すること

でもあるのです。

 

国民一人一人が主役であることが

国民国家の意義ならば、

主役である国民個々の想いこそが、

その集積である国家を

力強く作り上げていく、

それを晩年の生活の中で洞察した諭吉は、

その考えを残したい、伝えたい、

そんな想いがあったのだと思います。

 

ここまで書くと、

うっすらと、

伝わる人には伝わったと思いますが、

「立国は私なり、公にあらざるなり」

という言葉、

“国”を

“自分”とか“己(おのれ)”に置き換えれば、

そのまま私たちの生き方の指針に

通じるのではないでしょうか。

「“立己”は私なり、公にあらざるなり」

自分勝手になんでもやれば

いいわけではありません。

人を傷つけたり、

モノを破壊したり、

ということは厳に慎みたい。

ただ、

決して、

公という外側にある

誰が作ったか知らない常識という

価値観ではなく、

自分の想いに従って生きること、

自分という生き物を追い求めること、

そしてその想いに沿って

日々の活動を実践していくこと、

それこそが“立己”であり、

それは、かけがえのない自分を生きること

でもあるのです。

こういった説明に

どこかで出会ったことはありませんが、

だからこそあちこちで、

好きなこと、

得意なことをして、

働き、生きていこう、

ということが言われているのは

決して筋違いではないどころか

この社会を渡り歩く道理であるわけで、

そこには

自分を大切にすることによって、

他者を大切にし、

世の中を作り上げていくという

思想がながれているのです

(と思いたい)。

 

自分がこうなりたい、

こうしたい、

こうでありたい、

こういうものがあってほしい、

その結果、

あるいはプロセスで

大切な人を守りたい、

一緒に居たい、

世の中をこうしたい、

そこには一貫した目的があるわけで、

これを自分なりに作り上げていくことは、

とても楽しく、

充実した人生を送るコツでもあるわけです。

 

書くこと、

発信すること、

そういった私にとっての楽しみであり、

充実した時間でもある行為を、

別に他の方がこだわって

同じことをする必要は全くありません。

あなたにとってのささやかな楽しみ、

充実、そういったものを見つけて、

それに沿って起こす

ちょっとした行動の繰り返しが、

人とつながり、

人と人をつなげたりすることがあるのです。

それが他者に受け入れられ、

世に広まり、

それが公を作り、

スタンダードになることもある。

私たちという存在もそうできているし、

世の中もそういう仕組みになっています。

 

重要なことなのでもう一度。

 

私たちという存在自体を作り上げるのは、

決して公が最初ではないのです。

人が連綿と紡いできた命という意味では

私たちは決して

一人の力で生きているわけではありません。

よく言われる、生かされている、

というのは、少なくとも私は

一面の真理だと思います。

一方で、今の時代、

メディアやうわさから伝わってくる情報が

世間の常識を作り上げ、

多くの人々がそこに自分を合わせようと

躍起になって

結果おかしくもなっている。

それらの公が基準ではないのです。

そうすることが間違っている

といいたいのではなく、参照にする。

それが大人の自分の在り方です。

 

“立己”ということ。

決して、好き、とか、得意、だけにこだわらず、

こうでありたい、

これが必要、

これがほしい、

そういったことを追い求めるためにも

あなたがどれほどかけがえのない存在であるか

身にしみて感じることの大切さを

お伝えして終わりにします。

 

私たち一人一人の生きざまが、

とても充実して納得できて、

結果として

大切な人や大好きな人、

弱い人や困っている人

落ち込んでいる人や苦しんでいる人

そんな人々をつなげて

豊かにする、

その結果、社会が、国が富む。

そうであるといいですね。

 

ー今回の表紙画像ー

『近所のなすび畑より(昨年)』

今は…次回。