対処療法と生活習慣病の改善

日々の棚卸

生活習慣病は昔、成人病と呼ばれていました。

ご存知の方はご存知の内容ですが、私のように知ったつもりになっている方も中にはいるかもしれません。下記、Wikipediaから抜粋・意訳させていただきます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E6%B4%BB%E7%BF%92%E6%85%A3%E7%97%85

 

「生活習慣病は、糖尿病、高血圧、脂質異常など、生活習慣が発症原因に深く関与していると考えられる疾患の総称である。以前は加齢によって発病することから成人病と呼ばれていたが、その後、若年層の発症が認められるようになり、生活習慣が原因であることが判明している。成人病は、主として脳卒中、癌、心臓病などの40歳前後から死亡率が高くなり、60歳くらいまでの働き盛りに多い疾病である」

 

癌や脳卒中の話をしようとしているわけではありません。

ただ、何かがどこか似ているなあ、と思いませんか。

そう、私たちが陥る心の闇とそのメカニズムのことです。

 

心理の世界が経済のそれと類似の理屈で語ることができるのは、学術的にも直感的にも私には納得しやすい。双方とも、人の感情・気を扱うもので、実験的にも社会学や臨床現場で確かめられていることも多いからです。

であるならば、人を構成している肉体と心のことなのだから、相互に影響する共通項が並んでもおかしくないでしょう。

 

私の話で恐縮ですが、すでに何度かお話ししていることでもあり、例としてお話しさせていただきます。

原家族が壊れてしばらく、世の中を睨みつけるようにして日々を送っていた頃の私は、不幸の闇に向かってまっしぐらという状態でした。

方向が変わったのは、精神医療・臨床心理の知識の一つ、「家族伝搬」という家族病理学の用語について学んだことで、一度はどうでもいいと思っていた原家族に目が向いたときでした。自分の苦しみの原因がここにあった、という気づきのような感じだったと記憶しています。

目が覚めたような感覚とともに、これで自分は良くなる、というまだ鈍ったままの直感のもとに、悪感情に絡め取られていた父と母、妹を何とかしたくて、“正しい”知識を伝えようと躍起になって働きかけました。手を変え品を変えというわけにはいきませんでしたが、思いつくままに専門家を紹介したり、本を上げたり、とダイレクトな「説教」にはならないように注意しながら、原家族を包む困苦の理屈が何もかもわかった気になって、頭の中にあったことを伝え続けました。しばらくした後も結局、変化は訪れる気配を見せず、流れを変えることはついにできませんでした。経済学の用語を使って表現すれば、感情と自己評価が相互に折り重なってデフレスパイラル的に悪化・低下する方向に向かい、「歯止めをかける手立て」を打たない限り、行き着くところまで行き着かざるを得ない状態になっていたのでしょう。

この場合、「歯止めをかける手立て」とは何なのか。

“正しい”知識を与えることでは、少なくとも最初ではない。私が、彼らの味方になること、受け入れること、出来ることなら一緒にいること、だったと思います。“正しい”ことなど、おそらく父も母も妹も直感的にわかっていたと思うし、だからこそ意に反して哀しい状態を続けざるを得ない自分のことをますます批判せざるを得なかったのでしょう。そう思うと、そこに“正しさ=こうあるべき”を滔々と語って、願いとは裏腹に彼らをスパイラルに導くべく苦しめたかもしれない自分の馬鹿さ加減に、それこそ自分を消してしまいたくなる感情に襲われることが随分ありました。

 

最も苦しんだ闇の時代、知識を先んじて得ることで全てがわかったようになっていた時代、私は心の生活習慣病に陥って、危険な状態にあったのだと今ならわかります。なぜかと言えば、自分以外の誰かの幸せや名声を求めて、競走馬のように自分をひっぱたきながら走り続けていたのですから。どこにも安心できる場所を意識できず、自分を振り返って一緒にいる時間も持たない。どこまでいっても自分以外の誰かを幸せにできない、自分が望む場所まで到達できない自分を批判し続けることは、運動もせずに、96度のウォッカとコレステロールたっぷりの肉料理とスイーツを脂汗が出るまで三食食べ続けるより凄まじく荒れた状態を心の中に作り上げてしまうと思います。食べ物の習慣は外から見えますが、心の中は誰にもその病理性を覗くことができませんからね。

 

現在の私はそういった感情に取り込まれて行き詰ったり、身動きできなくなるようなことはなくなりましたし、多少の浮き沈みはあってもコンスタントに自分のペースで日々を送れるようになりましたが、一朝一夕でここまでこれたわけではありません。

今に至る変化は、本当にゆっくりと訪れました。

自分以外の誰か、何かを変えようとするのではなく、自分自身を受け入れるための働きかけを、専門家のサポートを得ながら繰り返しくりかえし行って得たものなのです。時に停滞しているように感じ、後戻りしているのではないかという危惧を感じながらも、自分の尻を蹴飛ばすことなく、とにかく自分は自分の味方だと思いつく様々な言葉で心の声をかけ続け、どんな自分の考え・感じ方も自分なりの理由があるのだと寄り添う自分を育み続けました。

一見利己中に感じるかもしれませんが、誰かを批判することなく、そして他者の目を意識することなく自分と仲よくし続けようとする人は、本人の気づかないうちに周囲も味方にします。なぜなら、自分に目を向けるように他者にも目を向けるということは、他者のともすればおかしな言動もまた、その人にとっては一理あることであり、自分がどうしようもなく傷つくのでなければ無下に非難の感覚を向けなくなる、そのことを他者も感じ取るからです。

そうやって、今の自分と一緒に歩み、事あるごとに味方になり、生きてくる中で自分を支えてくれた原風景に気づき、体の感覚の中に蘇らせ、過去も現在も自分が自分としてそこにしっかりと立っていることが感じられるようになるうち、あの頃自分と一緒にいた人、今一緒にいる人までもが味方に感じられるようになることはこれまでにも述べてきました。

これらは、本当に、ほんとうに、生きるための強力なドライブフォースです。世に推進力はいろいろあるけれど、どれも、根底に自分自身の生まれてから今に至るまでの肯定感、失敗や反省もまとめて未来へつなげようとする感覚が流れていてこそのものばかりです。

 

感情に苛まれて苦しんでいる人が一朝一夕で、変わった、必要なことは理解した、と思いたくなる気持ちは痛いほどわかります。それは、自分に可能性をもう一度感じられるようになるだけでなく、心の奥に住み着く大切な人々をも救うことができるかもしれない、という希望の光を、太陽のように感じられるからなのかもしれません。

そう感じることを否定するつもりは毛頭ありませんが、そこに潜む勘違い=人をコントロールできると思うこと、が自分の本来焦点をあてるはずのことから目をそらしてしまうことは知っておいてほしい。

 

癌やメタボに限らず、薬は対処療法と言われるが、これは心の病でも同じ。

異なるのは、精神科医やカウンセラーなどからの受け入れの言葉もまた、それが当人によって実行され続けない限り、医者のこうして改善しましょうという提案を頭で理解したところでストップしていることとと同じで効き目はありません。

 

今回は少々ベタな治療的内容になってしまいましたが、最後に私がよく学習した二人の精神科医・臨床心理士のコメントを付記させていただきます。

 

<ヴェッセル・ヴァン・デア・コーク~蘭⇒米国の精神科医。DSMの編纂に携わる>

恢復に薬は必要だと思う。しかし、症状の改善は、ともすれば根底にあるメッセージとの対峙を妨げる。薬は補助薬だ

では、精神とか心における自然治癒とは何をさすのだろうか。

一つは生き方だ。もう一つは自分を含む他者や世の中との接し方だろう。

プロザック=鬱の処方薬が開発されてずいぶんたつにも関わらす、一向に患者数もへらないではないか。

 

<テレンス=リアル~米国の臨床心理士。自身、過酷な家族葛藤からのリカバリスト>

ただ症状を消して、治療を終わりにしてほしくはない。

そこから、自分が置かれていたところの何かを学び取ってほしいのだ。

 

ゆっくりと自分とともに生きていきましょう。

それが許される時代だと思います。