『業』はゴウと読みます。
『業を背負う』は仏教用語です。
ご存じの方も多いでしょう。
意味は、
過去の自分の行いがもたらした
今の自分への影響を受け止めざるを
得ないということで、
主に、贖罪や後悔などの例で使用されます。
ですが、この『業を背負う』という言葉、
実は他にもう一つ、意味があります。
それは、
宿命的にせざるを得ないという意味。
決して悪い行いをしたから、
ということではなく、
変えられない過去があって、
それを背負って行うべきを
行わざるを得ない、
とでも言えばよいでしょうか。
例えば、
奥さんに何もかも生活を任せて
一切コミュニケーションも取らずに
家族のためと言って働いてばかりの男性が、
奥さんが他界したら何もできなかったり、
とか、
年を取るまで貯金を一切しないで
遊びまわったから、
年を取った後も働き続けなければならない、
などです。
先に言ったように、
決して悪いこととは言えないけれど、
やった方がいいことをやってこなくて、
良くない影響を受けてしまう、
という意味だと捉えています。
昔の人は、
生い立ち、出自、貧困、身体障害、階級、
そういったものに苦しめられました。
もっとも苦しめられた、という表現は、
現代の自由な社会で暮らす我々から見た
感覚であって、
彼らはきっと、苦しいという感覚はなかった
と思います。
何せ、それ以外を知らないのだから。
だから、今なら当たり前の平等など、
ある意味畏れ多い概念で、
あるいは、悔しくて歯ぎしりしながら、
どうにもならなかったりして、
でもそれが当たり前で耐えたりもしたし、
物的な貧しさと心持ちは違うことを
理解していた人たちがたくさんいたようで、
貧しさの中の朗らかさという
幸福な生活を送っていたといいます。
現代は万人に
自己実現の可能性があるのは確かで、
しかし、
万人が「巷で良いと噂される」夢ばかりを
追いまわしてしまっているものだから、
大多数の人々は、まず
そこにたどり着くことはまずありません。
そんな簡単に実現できないから夢ですし、
その夢なるものが、
心底から自分の内側から
湧き上がってきたことではない場合には
なおさらでしょう。
そして、自分の芯に触れることもないまま、
怖くて、混乱して、苛立って、不安で
うまくいかない、
行動できない、
先へ進まない、
失敗ばかりしている、
そんなことが続いて、
その理由を、
家族や生い立ちや、
要は自分以外の誰かや何かに
文句を言いながら、
自分から現実を受け入れたり、
動いたり、
自己肯定したりするということを
しようとしていません。
今は分からないかもしれないけれど、
頭の片隅にとどめ置いてください。
それは、
つまり、今のあなたの
混乱、
不安、
怖さ、
苛立ち、
無気力感、
そういった状態は、
あなたが
この人生で背負う業だということです。
最初に述べたように、
決してあなたが何か
後悔するほどの悪事を働いたりとか、
取り返しのつかないことをしでかしたりとか
そういったことではありません。
概して厄介ではあるかもしれないけれど、
決して、
恥ずかしいことでも
忌むべきことでも
毛嫌いするようなこともありません。
私たちは親の庇護のもとに
この体と心とを育み、
個性という名の歪みを万人が宿しています。
『業を背負う』とは、
宿命としてその歪みを受け止めることです。
あなたが思い描く望みに対して
歪みが大きい時、
どうしてもそのギャップから目を背け、
誰かのせいでそうなったことにして
しまいがちです。
そうやって、
恨んでいるうちは、
泣き続けているうちは、
憎んでいるうちは、
無感覚でいるうちは、
例え、理由がなんであれ、
絶対に、ぜったいに今の状態から
よくなることはありません。
よくならない、とは、
あなたが心の奥底で望んでいる人生には
なりえないということ。
対抗するのは、
対峙するのは、
向き合うのは、
親の人生ではなく、
あなた自身の人生です。
親の人生は変えられないし、
親も変えられない。
悔しいのは
哀しいのは
憤るのは、
痛いほどよくわかります。
でも、
親から与えられた個性を歪みとして
宿したならば、
フォーカスするのはそこじゃない。
何よりも
誰にどこで与えられたものであるにせよ、
あなたという存在がある以上、
それはあなた固有の人生なのであって、
そこでおこった出来事を
あなた以外の誰かが何とかしたとしたら、
それはもう、
あなたの人生じゃなくなってしまい、
あなたが今こうやって
苦しみの中にいる理由でもある、
未来の幸せを実現するという、
感動がなくなってしまうでしょう。
業は、
決して恐れることではありません。
人はとっかかりがうまくいかなくて、
言い逃れる場所があると、
ついそちらに走りがちだけど
一時的ならともかく、
そこに居続けたところで、
ますます状態は悪くなるばかりです。
それよりもむしろ、
業とは何かを自覚し、
よく言われるように、
人生では
その人が乗り越えられない試練は
与えられないことを信じて、
今ある状態を
自分の一部として生きていくことを
決意した時、
業は、
自分を動かすエネルギーになります。
実は、自己を肯定するための
隠れたエネルギーでさえあるのです。
業は、すべての人が抱えています。
その中にある、弱さや哀しさを理解し、
その感情を体現する自分を受け入れて、
自分のための明日を生み出しましょう。
ー今回の表紙画像ー
『東扇島 ウォーターフロント』
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