自分の物語を取り戻す

日々の棚卸

今回は、おかたい資本主義の話が絡みます。

苦手な方は読み飛ばしてください。。。

でははじまり。

 

自分の欲求とか望みに沿って

自分の人生を自由に生きている、

そう胸を張って言える人が、

世の中にどのくらいいるのだろう、

たまにですが、そんなことを考えます。

それはきっと、

私自身の生きざまの中に、

自分に納得できないままに、

流れに逆らって生きてしまう自分を

受け入れられないことがあって、

自分で勝手に生み出してしまった

場違いなほどの

“自分第一”的な振舞いだったり

“自己逃避”だったり

そういった不自由な状態に対して、

我ながらあきれてしまうときが

あるから……かな。

 

自由資本主義社会という、

万人が万人の欲求を追求するために

スタートした社会に、

私たちは生きています。

資本主義という言葉は

これまでの記事でも使用していますが、

言葉が持つイメージから

なんだかお堅く響いて、

どうにもなじめなかったり、

一歩引いてしまったりする

そういう方もいるとは思います。

でも、この資本主義というシステムは

私たちが自分の欲求を追い求めるための

仕組みを持っていて、

私たちに与えられた自由度が、

時には、

私やあなたや家族や友人や

そういった一人一人の人生に

悲喜交々のドラマを演出することにも

なっています。

私たちは、そんな社会システムの中で

夢を描き、希望を追い求め、

幻想を交えながら、

自分が生きる物語を構築して

その中で日々の活動を続けています。

 

米国の「アメリカファースト」より前、

グローバル社会の弊害を感じた国々の中に

自国第一主義を掲げる一定の勢力が

すでにあちこちでありました。

それを顕在的に表現したのが

かの国の大統領だったわけです。

ここは政治を語る場ではないし、

私は専門家でもなんでもないので、

その是非についてどうこう言うつもりは

ありませんが、

以前にも書かせていただいたように、

経済や国や国民の動向には心理の仕組みと

類似した部分があると考えています。

私たちの中には意識無意識を問わず、

頑なに

過去に学んだり

思い込んだり

躾けられたり

したことを守っているところもあれば、

意味もなく、

変えよう、

変わろう、

と試みているところもあると思います。

 

資本主義社会は国民国家とともに

19世紀に生まれました。

(確かにかたいな…)

産業革命が起こって資本主義社会が始まった

という学校の教科書の記述とは裏腹に、

資本主義社会という新しい、

それまで身分ごとに固定されていた

国民一人一人が、

自分が自分の人生を生きる責任を持つ、

国民国家を実現する機運こそが、

産業革命をを必要とし、そして起こった、

とする説が正しいようです。

(ホントにかたいな…)

この資本主義社会の特徴の一つに、

伝統主義の打破というものがあります。

昨日がそうであったからという理由だけで

今日もそうである。

今日がそうであるからという理由だけで

明日もそうであるとする。

呪術を含め、

そんな有名無実となった伝統を打破することが

要諦の一つです。

(やっぱりかたいな…)

詳細は置いておくとして、

資本主義社会は、

盲亀の浮木(まずありえないこと)のごとく

いくつもの厳しい制約要件が満たされて

初めて成立します。

そんな要件を満たしたシステムを導入した国々は

紆余曲折あったにせよ、

自らの力で糧を得る可能性を手にしました。

私たち日本人は、認めるかどうかは別として

まさにそんな範疇に入ると思います。

 

一方、この資本主義社会、

一度スタートしてしまうと今度は、

そこに属する人々がどんな心持ちになっても、

つまり成立時の要件を満たさなくなっても

継続される特性を持ちます。

先に述べたように、資本主義社会は、

個々人がそれぞれの欲望を

追求可能にした社会です。

金融システムとインターネットが

それを加速させました。

そして、

前世紀の終わりくらいからでしょうか、

そういった進歩なるものに対する

反動もあってか、

祈り、とか、願い、とか、魂、とかいった

元来は宗教の中で耳にしていた言葉が、

再び私たちの日常に

垣間見えるようになりました。

 

私たちは、

自分が生きる物語を自分の中に内在化して

日々を生きています。

物語という幻想を現実として、

その中で欲求とか夢とか希望を描いて、

実現することを願っています。

そして、資本主義社会は、

身分や出自に関係なく、

一人一人がそういったものを追い求める

社会的・心理的なインフラを

根幹に成しています。

 

だから本来、

実現したい夢なり欲望なりを追う上での

最低限の準備は整っているはずですが

現実には

動くことを怖がって何もしなかったり

誰かに腹を立てて動かない理由にしたり

試すことがなく自分の無力に落ち込んだり

お金や時間がないと優先度を上げなかったり

厳しいことを言えば、

病を理由に動きを0にしたままでいたり、

かつての私を含めて、

そういった人は少なくありません。

それでいて、

夢がかなわない

うまくいかない

邪魔ばかりされる

もう××歳だから、

などと嘆いてばかり。

 

なんでそんなに動けないんでしょう。

 

もしかして、

過去がそうだから、という理由だけで

続けていることのせいではありませんか。

それによって自分も人も苦しめ、

人生が行き詰っているのなら、

その“呪術”から自分を解放しましょう。

 

あるいは、よく考えもせず、

ほんとに欲しているか自問もせず、

やたら革新とか変化とかいきり立って

動いていませんか。

何がそんなに気に入らなくて、

今の何をそんなに変えたいのか、

それはほんとに変えるべきことなのか、

受け入れることではないのか、

本心から祈り願っているのか

自分のかけがえのなさを無視したり

魂に背いて動いたりしていないか

一度立ち止まって振り返ってみましょう。

 

ひどい環境、ひどい過去だったからと、

すべて切り離して、

新しい場所、

人の関係、

大金を目指して

飛ぼうとしていませんか。

飛ぶための土台を崩したまま、

一緒に飛んでくれる誰かもいないまま、

そうすることは、

自分を溺れさせ、

落としてめているかもしれないことに

気づきましょう。

そして、

ひどい、

と思っていた中に埋めてしまった愛を

取り出しましょう。

 

世の中は、

人は、

自分は、

幸せの塊のようなものです。

その信頼を引き出し、

感じ、

それによって望む今と未来を生きる物語を

自分の中に取り戻すのは

あなた自身です。

そのための物語を、

もう一度自分を振り返って

組みなおしてみませんか。

 

ー今回の表紙画像ー

『梅雨の雨間』

梅雨は体が慣れるまでにちょっと時間がかかりますね。