心の土壌を作ろう2

日々の棚卸

 

さて、今回は、

心の土壌づくりの話の2回目です。

1回目はこちら。↓

https://nakatanihidetaka.com/mind_soil/

 

癒し、そしてワクワク感。

豊かな人生を送るために必要なこと。

そういった言葉が言われ続けて久しい。

そんな気がします。

以前にも述べたけど、

これらの言葉、

どうにも引っかかって仕方がない。

おそらく、

その使われ方というかコンテキストというか、

つまり話の流れに

どうにも

麻薬的というか、

甘い話で根っこの感覚を麻痺させるような

“意識させない”逃避的な

そんな響き、ニュアンス、

そして導きのようなものが

感じられるからだと思います。

 

癒しもワクワクも

素敵な、あれば望ましいことで、

必要ならば求めればいいことです。

ですが、

その求め方、

求めるときの自分の状態が、

その後の効果というか効き目を決めることは

案外、知られていません。

 

私たちは

時々、幸せという名で呼ばれる感覚を

ダイレクトに

フルに

圧倒的に

感じたいと思っています。

というより、

そんな感じで幸せを感じられないと、

自分が求める方向に進んでいるのか、

疑問が湧きおこり、

不安になってしまったりします。

でも、よく言われるように、

本来、豊かさも幸せも

身の回りにいくらでもあるもので、

未来の希望も不安も

その受け止め方と

自分自身の受け入れの状況によって

変化するものです。

 

財布を落とした。

中にはカードも入っている。

自分の全財産といってもいい。

どこで落としたのか見当もつかず、

ほとんどパニック状態だ…。

翌日、警察から、

「財布が届いていますよ」

と、連絡があった。

財布にあなたの名前が書いてあった。

戻ってきた。

名乗り出ないまま届けてくれた人がいて、

預かった警官もきちんと処理をして

電話をくれた。

そんな時は、

多くの人が

頭を下げて感謝すると思います。

もし、財布が戻ってこなかったら、

耐えられないほどに、

不安が大きく膨らんでしまい、

明日以降、途方に暮れて暮らすかも

しれない。

だからこそ、

そうそう起こるわけではない大事が

よりによって

自らの日常に起こったことも含めて、

望みうる最良の結果に落ち着いたことに、

単純に胸をなでおろすにとどまらず、

届け出てくれた人や

当の景観を含む警察機構や

自分が暮らす社会に対してまで

何かこみあげてくるような感謝の念で

心が満たされるのではないかと思います。

 

その一方で、

人から挨拶をされた、

エレベータが閉まりかけてるところに

走って乗りこもうとしたら

ドアをもう一度開けてくれる人がいた、

店員からお釣りとともに笑顔をもらった、

小さな愚痴を言ったら

「自分に返ってくるよ」と

たしなめられた、

そんな日常の些末なありがたさを、

右から左にスルーさせながら、

多くの人が

自分がいかに恵まれない境遇か、

未来がどれほど暗くて不安か、

人からの行為がいかに失礼か、

そういったことを、

あたかも

体現するかのようにして生きています。

そういう人たちが、

癒し、ワクワク、感動を求めるとき、

大方は

賑やかさだったり、

お金や地位や名声などのパワーだったり、

興奮だったり、

そういったものを実現することを

目指しがちです。

あるいは、

圧倒的な自然の中にいる感動だとか

(私も好きです)

南の海の鮮やかさの中に潜るときとか

(私も好きです)

ゴージャスなフラワーガーデンだとか

(私も好きです、多分)

そういった“特別な”空間を求めがちです。

この間も書きましたが、

いわゆるドーパミン出まくりの世界ですね。

あるいは、

こんな言葉があるのか知りませんが

カンフル剤としての

特別オキシトシン透析のようなものかな。

ある種の達成感、実現感、到着感は、

それが明示的なもの、

外見的なもの、

社会的なものであればあるほど、

そんな世界とつながっていることが

多かったりするように思います。

 

繰り返しますが、

それらを求めること自体は、

悪いことではありません。

求めて、

素直に喜んで、

ああ、幸せな日々だ、

と感じられるのであれば、

それにこしたことはありません。

ですが、その

ドーパミンがドバドバと

放出されることを求める世界は、

一時的にはよいかもしれませんが、

しばらくすれば、

今度はその反動として、

不安や不全に包まれるようになります。

 

土壌という言葉は、

これまでにも何度も使用してきましたが、

ドーパミンが出続ける世界は

その土壌の上に安定してあるとき、

初めて、

あなたの幸せに

長く深く根差すようになります。

肯定的で安定感のある日常の

あるシーンとして“彩(いろどり)”を

添えてくれるのです。

言い方を変えれば、

“彩”という素敵な要素ではあるけれど、

それ以上でも以下でもありません。

 

感性の土壌、

心の土壌、

そういった部分を

きちんと作り上げるということは、

まず最初に、

何者でもない自分を受け入れ、

そんな自分が、今確かに存在していること、

そこにあることが当然である感覚を宿し、

無意識も含めて、

日々のささやかな出来事の中に、

自分を肯定する“証拠”を

感じ取れるようになることです。

 

よい土壌とは、

良く耕され、

養分が豊富で、

そこにまかれた種がすくすくと健康に育ち、

ちょっとやそっとの

嵐(不景気や悪境遇)や

病気や

害虫(悪口や仲間外れ)や

そういった攻撃にしっかりと耐え、

実り多い花を咲かすことができる、

そういったものです。

 

私たちの心の中に芽生える感情は

それまでに私たちが

経験・体験し、

感じ、

それらを解釈し、

体中で記憶し、

世の中とは、人とは、

こういうものだ、

というのを作り上げていく中で

少しずつ変化しながら、

もたらされるものです。

湧いてくる感情が

一朝一夕では変えられないのも

そのためです。

それは、

経験・体験(まかれた種)を、

どう感じ、どう解釈するか(育ち方)、

その変換というか変化を促す

環境によるものであり、

私たち一人一人の中に宿っている

自分自身の受け止め方、

他者や世の中の受け止め方、

自尊心や受け入れの感覚が

どれだけ醸成されているか

(土壌が耕されているか)

によって、

決まってくることだと思うのです。

 

心の土壌を作るということの大切さが

お判りいただけたでしょうか。

 

実は、

心の土壌が大切なもう一つの理由があって

荒れたり、浮かれたり、疲れたり、

そういった、

時に軸がぶれてしまう自分が

帰る場所でもあるということなのですが、

ちょっと長くなるので、

それはまた、別の機会に。

 

ー今回の表紙画像ー

『Moon Light Park2』

さらに昨夜の続きを別の場所から。

今日は雨だけど。。。

お月さんが街路灯より明るい。