どこにいても、どんなメンツといても
その中に馬が合わない人がいる、
そういう方がいます。
家の近所で、
会社で、
学校で。
ひどいときには家の中で、
夫(妻)とは馬が合わない、なんて人も。
恋愛して結びついただろうに、
大変だな、なんて思うのですが、
諸々の理由があって(?)、
一緒の生活を続けているのだとか。
ただ、人は
孤立していたり、
周囲と対立していたりしていると、
自分の身の回りの人々だけでなく、
世の中全体が自分を受けれてくれない
と感じるようになることがあります。
かつての私もまたその一人。
社会に出る前後の一時期、
ほんとうに何もかもが
自分を拒否しているような錯覚にとらわれ、
そんな世界から逃避するように
心の中で闇の世界に逃げていた頃のことも、
こんな感じで書きました。↓
https://nakatanihidetaka.com/shadow_trans/
素の自分でいられるはずの家族の中でさえ、
攻撃を受けているような感じを
抱いていたりする状況にまでなると、
かなり厄介といえば厄介です。
特に、親の立場にある人が
自分を被害者としてとらえて、
外に“敵”を見出しているという
状況だったりすると、
厄介さが増します。
しかも同時に、
彼らは彼らなりの世界観で
疑うべくもなく、
とても真摯に生きようとしてもいるわけで、
そういった自分に気づいたとしても、
何をどうしたらよいかわからなくなっている
というのも一面の真実だったりします。
そうこうしているうちに、
子供がひきこもってしまったり、
ドロップアウトしていたりしていて、
互いを思いやる余裕も見えないまま
家庭内に殺伐感が充満し、
なぜ家族なのかという根源的な意味まで
見失われてしまうところまでくると
さすがにこれは何かがおかしいと
思うようになるわけです。。
そんな環境に長く身を置くうち、
自分の中に
二つの感覚が住み着くようになります。
自分に対する恨みと
自分への不信。
これ以上、
自分を育んでくれた世界を
悪者にしたくないがゆえに作動する
心のメカニズムです。
とにもかくにも、
何かおかしい、
そう思って、
打ちひしがれた自分に寄り添い、
自分をしっかりと見つめなおすうち、
そういった世の中の見方、
人の見方に対して、
自分が一種のパラドックスを抱えている
ことに気づきます。洞察するといっても
いいかもしれません。
先日の『順序が逆ではあるけれど』でも
話しましたが、↓
https://nakatanihidetaka.com/reversed_order/
自分を追い詰めるもの=敵
という存在自体が一種のレトリックであり、
本質を巧妙にはぐらかした概念であり
それらは自分が生み出した影である
ということがわかるからです。
自分を受け入れようという一つの肯定感が
生まれる瞬間です。
それまで遠ざけていたり、
見失っていたりした
自分のの中の潜む
もう一人の自分の受け入れが進むほど、
他者もまた、
自分と同じように真摯に生きていて
時に間違いを重ね、
ある種の残酷さと親切さを併せ持ち、
それぞれが
自分と大切な人と世の中とを
少しでも良くするために、
それでいて適当に、
生きていることを皮膚感覚で
理解できるようになります。
理解できる、というよりは、
もともと理屈の上ではその可能性も
考えてなくはなかったけれど、
まかり間違っても認めたくなかった、
そういった感覚が
認められるように、
あるいは
信じられるようになるのです。
だって、自分の中のその感覚を自分に対して
信じたんですからね。
当然といえば当然でしょう。
敵ってなんだ?
誰が、何が、どんな意味で、
自分の敵なんだ?
そう気づいたとき、自分が
ドン・キホーテであり、
暖簾に腕押ししているのだとわかって
当時の私は、
目の前が開けた、というよりは
妙に気が抜けた感じがしたものです。
相手の言葉や振舞いに、
周囲のちょっとした反応に、
敵意を感じ、
自分を傷つけようとする
それらの圧力によって
押し開けられそうになる心のドアを
必死になって体重をかけて
全力で押し戻していたのだけれど、
よくよく様子を見てみると、
ドアは一気に押し開けられるどころか
実は力を抜いても
そのままうんともすんとも言わず、
開こうともしない。
自分の方からそっと開けて外を覗いてみると
気持ちの良いそよ風が吹いていて、
穏やかな陽の光がさしていて、
誰もがそれぞれのペースで
思い思いの日常を生きている風景を目にした、
なんてことを目の当たりに
何だか拍子抜けしたものでした。
ドン・キホーテ云々はともかくとして、
大人になるまでに体得できていなかった
自分の一体化が進むと、
親もまた、
あるいは伴侶もまた、
同じように苦しみながら、
どこかで私を
頼りにしようとしてしまっていた、
ということ、
それがその時の彼らにとっての精一杯だった
ということ、
その表現方法の歪みを感覚的に理解し、
彼らを大切に思いながら
自分を守らなければならないときには
荒れている彼らからきちんと遠ざかり、
助けるときには助けること、
その大前提として、
常に自分自身と相談して
自分が納得する生き方を実践すること、
“敵”という感覚が遠ざかると、
そういったことの必要性を
素直に理解できるようになるのです。
世の中、100%が自分の味方だ、とまで
いうつもりはありません。
ただ、“敵”を色濃く想定すると、
周囲の誰か、突発的な誰かを
“敵”として引き付けることになります。
もちろん、
どんな世界でも、
上に行けば行くほど、競争は激しくなり、
結果として衝突はあるでしょう。
それをして、敵、という表現もまた
通用してしまうかもしれません。
ですが、私たち個々人が普段接する
家族や会社、隣近所の人たちに対して、
自分を大切にすることを心がけ、
自分の想いを基準に、
距離を取るときにはしっかり距離を取り、
交わるときには交わる、
そんな基本を実践していけば、
そうそう“敵”となるような相手は
出てこないものです。
どうか、0と1で考えることなく、
ゆっくりと“敵”を薄めていくような
感覚を体現してみてください。
その前提で動けるようになったとき、
周囲のあらゆる存在への慈しみの心も
湧いてくるようになると思います。
心の平安とは、
そんな中に表れるし、
それこそが、
かけがえのない自分と豊かさを
実現する原動力となるのだと思います。
ー今回の表紙画像ー
『とんび?』昨日の青空から一転。こんな日も飛んでるんだ。
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