生きるために食べる

日々の棚卸

 

然るべき事柄について、

然るべき人々に対して、

さらにまた然るべき仕方において、

然るべきときに、

然るべき間だけ、

怒る人は賞賛される

(ニコマコス倫理学)

 

ニコマコスは、

有名な古代ギリシャの哲学者である

アリストテレスの息子さんで、

ニコマコス倫理学は

彼がお父さんの言葉や記した書物の内容を

まとめたものだそうです。

最初の言葉は、

アリストテレスの数多い

“研究成果”の一つだとのこと。

 

社会人になりたてで、

表面上はとてもイライラしていて、

その実、

得体のしれない何かに怯えていた頃、

周囲に怒りを覚えながら、

頭のどこかで、「何かが変だ」と感じ、

その何か、とは、

おそらくは自分の中にある何かなのでは、

という、

直感とも、

第六感とも

言えない感覚が芽生え出していて、

そんなときに出会った言葉でした。

 

最初に目にしたときは、

率直に、

「そんなことできるか!(ボケ)」

と突っ込み半分でそう感じたことを

今もはっきりと覚えています。

ほとほと、自信喪失状態だったんでしょう。

それにもかかわらず、この言葉は、

ずっと、ほんとにずっと、

なが~く私の記憶の中に残り続け、

何かの折にはよく思い出したもので、

その故に何度か救われたこともありました。

 

今はそもそも、

例え自分の中に限ったとしても、

イラつきや怒りが、

暴走することはなくなりましたが、

(怒りを感じるときはもちろんありますよ)

それでも何か嫌な感覚が

自分の中に察知されたときには

よく思い出す言葉の一つです。

ほんと、思い出すにつけ、

怒りの処理というやつは、

やっぱり、

「そんな簡単に実践なんてできません」

が本音ですけどね。

 

何と言うか、

この言葉が紀元前のものである、

ということ自体、

人が“怒り”というものに対して

どれだけ悩んでいたのか、

ということを物語っていて、

それをしみじみ感じます。

 

湧き上がる怒りは、理由はどうあれ、

自分の一部です。

いつも言うように、

否認することなく、

正当化することなく、

叩きのめすことなく、

自分の中の一人の自分と認めて、

彼・彼女を感じるたび、

一番大切な相手に接するように、

地道に付き合っていくうち、

怒りで自分が暴走したり、

そもそも怒ること自体が

各段に少なくなっていきます。

そこにある本音や、

怒ることの無意味さや、

その行為が自分自身を傷つけている

そういったことに気づくからです。

この言葉を思い出すと、

言葉の威力とは、

実践を伴って身につくことの中に

顕在化するのだな、と

ひしひしと感じます。

 

標題の一節を含む、

『生きるために食べよ、

食べるために生きるな』

 

これも古代ギリシャの哲学者である

ソクラテスの有名な言葉で、

記憶の中に残り続けている

言葉の一つです。

知ったのは、

最初のアリストテレスの言葉より

もう少し後のことですが、

それでも今よりずっと若い頃、

父の自死の少し前のことでした。

世の中とも自分とも

折り合いがつかずにいた頃の私が、

生き方を変えようと思った

そんな言葉の一つだったのですが、

父のことがあってから

その想いは一気にトーンダウンして

一時は心の闇の中に見えなくなって

しまいました。

(というか、全く思い出さなくなった)。

それが、

もう一度自分と向き合って、

自分というものに対する

唯一無二のかけがえのなさの実感を

自らの中に確信するようになるほどに、

このソクラテスの言葉を

記憶の中から呼び覚ます機会が

徐々に出てきました。

 

この言葉もまた、初めて知った時は、

やっぱり

「そんなことできるか!(ボケ)」

と感じたのを覚えています(笑)。

昔から胸の奥に漠然と抱いていた、

自分の願いというか

望む生き方の本質に触れていて、

しかも、

それを自分が実践できているとは

かけらも感じられていなかったせいか、

余計に心に刺さったのだと思います。

当然というか、反発も覚えました。

そのくらい格好良くて、

実践の見込みが立たない、

そんな表現だったのですね。

 

それが、

つまり生きるために食べることが、

曲がりなりにもできるようになったと

感じられるようになった頃に思ったこと、

それは、

食べるために生きている自分を

正面から見据えて、

しっかりと認識して、

何が食べるために生きていることで、

何がそうではないことで、

食べるために生きている部分が

自分にとって本当に望みではないのか、

望みではないのならどうしたらいいのか、

そういったことを真剣に、

本当に眠れないほどに真剣に考え、

自分なりの結論を得た後のことでした。

 

誰かに相談しようにも、

こればかりは自問を繰り返し、

強制的にこの世からいなくなった父や

いなくなろうとした兄弟や

自分もまたどうあがこうと

いつかこの世から去っていくという

事実をもとに、

真摯に向き合い、

自分なりに一つの回答を

得るしかありませんでした。

そして、

得た回答にのっとって、

動き方、

生き方、

働き方、

人との接し方

を変えて実践してみる。

ひたすら、その繰り返しでした。

 

もし今あなたが、

自分にとって生きることとは何か、

その洞察を経て行動しているとしても、

きっと、

うまくいかないこともあるでしょう。

というか(私の場合はそうだったけど)

最初は試みたこと全てが

“こけて”しまうかもしれません。

お恥ずかしい話ですが、

私はどうもほとんど性癖とでもいうか、

物事のとっかかり方、始め方

そういったものがとても下手なようで、

新しいことを始めるたびに

苦労することが当たり前だったのですが、

そうであるがゆえに逆にいろいろな手法の

効果については

頭だけではなく、

事実として理解してもいるという

あまり自慢にもならない

自負を持っています。

 

ともかく、最初は、

いえ、最初の何回かは、“こける”かもしれない。

 

でも、やってみるんです。

小さくていいから。

ほんのちょっとでいいから。

それは、

感動した言葉を血肉に変える

唯一の方法です。

 

自分を受け入れることも同じですが、

こればかりは天才でもない限り

繰り返しの中につかみ取っていくしか

ないものです。

 

そうやって、

自分に従って動くことを覚えると、

怒ったり、

イラついたり、

悲しんでいたりする

“暇”がなくなります。

そのとき、

“生きるために食べる”ことの

最初の一歩を

感じられるようになると思います。

 

ー今回の表紙画像ー

『街のずっと西を流れる川』