『自分の幸せ』の実践を最優先しよう

日々の棚卸

 

1.家族がおかしい

まだ農業さえ定着していなかった遠い昔から、

すでに家族という形態はありました。

人が家族を作ったと言えばそれまでですが、

家族という形態の中で、

人は現代に通じる“人”になった、と

いう人もいます。

家族を構成しない多くの哺乳類は、

それでも個体を維持し、生きています。

つまり生きるだけなら

家族がなくとも生きられなくはない。

しかし、私たち人は家族を作った。

なぜでしょう。

 

互いに協力することで、

単独ではなしえないことができる、

というのはもちろんあります。

子育てに食料の調達に安全の確保。

これは生き残りという意味では

生物学的なメリットですよね。

周囲の人とのかかわり方も

家族という単位が影響するようになるでしょう。

 

さて、このときに起こることは何でしょう。

少し想像するとわかりますが、

そう呼ばれる前から

家族という構成をが日常化することで生じる

個々人の内的な変化ですよね。

それまでにはなかった世界、

つまり親であり、祖父母であり、

兄弟姉妹であり、親類であり、

そういった人々が個別に

身近な存在としてそこにいる、

そういう皮膚感覚を宿します。

 

家族はいつも当たり前にそこにあるもの。

大切な人はいつもそこにいるもの。

生きる中で感じ取る愛着。

 

家族という存在がこのようなものだとすれば、

これは人が生物として生きる上では

必ずしも必要なものではありません。

別の言葉でいえば、幻想の一つです。

幻想ではありますが、

私たちは多くの幻想を信じて生きていて、

しかも信じて生きていることさえ

意識していないまま生きています。

そのくらい、心の奥深くに

根差した感覚の話です。

 

その家族の誰かがおかしい。

父が、母が、

祖父母が、

兄弟姉妹が、

荒れていたり、

壊れていたり、

引きこもっていたり、

出ていったり、

何かにおぼれていたり…。

傍から見れば問題とされる

 

それは見ていて哀しいし、

苦しいし、

腹が立つし、

自分の人生にも影響があるし、

自分自身がおかしくなりそうだから、

何とかしてあげたいと切に願うのは

おそらくは他の動物では生じない

人に固有の感覚です。

 

何とかしてあげたいという

その感情に嘘はないでしょう。

自分が願って行動したとしても

さほどの効き目はないどころか

逆効果になってしまうことの方が

ほとんどです。

その働きかけも含めて、

家族の中で醸成されたものだからです。

 

ここで言えることは、家族とは

あたかも一つの生き物であるかのように

内部の者の動きをして、

生命を続けようとする、ということです。

 

2.世話を焼く意味

世話を焼くことは、

特に相手が大人である場合、

残念ながら限度があります。

大切な、愛する人を、

守り、良くし、助けたくて、

何とかしようとする。

大切だから。

愛してるから。

 

その行動、

本当に、彼・彼女を救うことになるのか。

実は、問題を支えている、

つまり、問題を継続させてしまっている

ことになっているのではないか。

そう考えたことはあるでしょうか。

 

アルコールや薬物の依存症が

継続されるメカニズムで

明らかにされてきたこと、

つまりお酒を隠したり、

もう飲まないと誓わせたりすることは、

依存を断ち切るのではなく、

依存する仕組みを継続させることに

なってしまっているということで、

実は日常生活の多くの問題にも

あてはまります。

 

例えば、職場の人との関係が苦しい、

という問題を抱えた人がいるとします。

その環境をその人自身が招いている

メカニズムが働いているのではないか。

そういったことです。

 

この時、他の誰かが

いっとき味方になったり、

慰めの言葉をかけたり、

うまくいかな仕事をサポートするのは

悪いことではありません。

ですが、それらの行為が常態化するとき、

問題を抱える人を助けるどころか、

問題を抱えたままにしてしまうことに

なってしまいがちです。

 

3.回復のメカニズム

こんな時、サポートする人が

自分自身の日常はどうなっているだろうかと

振り返ると、

おそらくほとんどすべての人は、

問題を抱えた人と同じように

行き詰っていることがあります。

 

大切な人を大切であるが故に救おうとして、

その間、自分自身の人生は

おざなりにしてしまっている。

正確に言えば、

自分をケアすることをおろそかにして、

体にはストレスと疲労がたまり、

人の関係はおかしくなり、

救おうとしている人と同じ状態に

向かう予備軍になるという

元来願っていたことと矛盾する

結果を招いていたりします。

 

私たちは個体としての生命体であると同時に、

人との関係の中で生きています。

単独で症状が出ることはあり得ません。

関係という力の作用は

私たちすべての日常に働き、

自分単独ではなり得ない

“私”を作り上げています。

その作用の総和が、

今の私たちを私たちたらしめています。

“私”が“大切な人”と

つながっているが故のことならば、

“私”が変化することが、

“大切な人”の変化につながる。

それは私自身が今よりもっと、

私そのものになって満足すること。

誰かのために、

と踊らされていた状態から、

私のために生きられるようになること。

私を愛したようにしか、

大切な人を愛し、

慈しむことはできないと知ること。

 

私を犠牲にしている限り、

大切な人は表層の出方がどうあれ、

その人自身を犠牲にし続けます。

 

4.自分の人生を生きるとき、大切な人は回復する

私は、なぜ今の私なのだろう。

そう考えた時期がありました。

 

私たちは、自らの働きかけによって、

人の利に貢献することで

幸せを感じるのは間違いありません。

つまり、与えることの中に

歓びを持っているということです。

いわゆる“利他”の心ですね。

 

では究極の利他とは何か。

もっとも威力を発揮できることは何か。

 

結局のところ、

自身を大切にすること、

自身の望みを実践していくこと、

自身が最も欲しいモノを求めていくこと、

自身のやりたいことを行うこと、

それらを継続したくて継続すること、

そして、その結果得られた果実こそが

誰かの幸せに貢献すること、

ではないでしょうか。

心の底から元気な誰かを見ている時、

私たちは自然と元気をもらいますよね。

 

大切な人が苦しんでいる時、

救いたいと思っているあなた自身の中にも

形を変えてその状態が存在しています。

だからこそ、まず、自分自身に実践あるのみ。

それこそが利他の究極ではないでしょうか。

 

ー今回の表紙画像ー

『駅を出たら夕空が目に入った』