理屈は回る

日々の棚卸

 

当ブログをご覧になっている方の多くは、

大学に行かれたかはともかく

受験世代だと思います。

中には、

少なくとも、学校教育と

それをもとにした家庭教育の中で、

大学受験の持つ社会的な意味を

価値観として刷り込まれている、

ほとんど本能的・無意識的なところまで

刷り込まれているのではないかと思います。

 

1980年にソビエト連邦の崩壊を予言した

故小室直樹先生は、

教育や子育てについても歯に衣着せね論を

独自の視点から著書で述べていて、

荒れる子供や家庭環境、結婚しなくなっていく

今の社会をも予測しておられました。

その氏が何度も主張していたこと、

それは、

受験“戦争”はネズミ人間を育てる、

ということです。

ちゅうちゅう、チューチュー、と鳴きながら(?)、

天井裏をかけまわる(?)あのネズミです。

ゲゲゲの鬼太郎に出てくるねずみ男のような

人間が出来上がるといっているのでは、

もちろんありません。

余談ですが、私は大学1年の頃、

間借りの下宿に暮らしていて、

生まれて初めて天井裏を鳴きながら

ネズミが走り回る音を聞きました。

人によってはショックかもしれませんが、

18歳の私は、

ほんとにこんなところがあるんだ、と

何だか新しい世界を知ったようで、

毎晩寝入りの音として耳にしていたことが

とても懐かしく思い出されます。

 

少し話がそれましたが、

氏が言われたネズミ人間の意味とは、

別の言葉で言えば、

デジタル人間が出来上がり、

国の中枢を占めるようになる、

ということだと思います。

私自身もまた、そんな中に

ばっちりはめ込まれた人生を送ってきた

という自覚があるせいか、

氏の主張は、

言い得て妙だと感じますね。

 

最初に、大半と言ったことからすれば、

そんなことはない、

と腹を立てる方もおられるかもしれません。

実際、そういった“ネズミ人間”とは

無縁の人生を送っている方も

たくさんおられるし、

特に近年は様々な意味で二極化が進んで

大学進学に重きをおかない方も

随分おられます。

ただ、大勢として、

年を経るごとに重用される大学受験と

その結果出来上がるとされる

“ネズミ人間”=デジタル人間

という在り方に当てはまる人が

少なくないのも事実ではないでしょうか。

 

デジタル人間とは、あーすればこーなる、

と考える人のこと。

人間の存在を一面的に解釈してしまう

というのもこれに当てはまると思います。

あるいは、

ボタン一つで次のアクションが決まる、

世界が正常だと思うこと。

それをある種の人間関係にも延長して

世の中を見てしまうこと。

私たちは、

心理カウンセリング、精神医療、

と言う手法を知って、

そこにこれまでにはないアプローチを用いて

今苦しんでいる自分を解放しようという

試みをしています。

一定の成果を得るようにもなりました。

一方で、この理屈の部分が独り歩きして、

私たちの抱える問題、

親の捉え方、

人との関係性と言ったものまで

ある領域からしか見なくなっているし、

また見る余裕をかなり以前から失っています。

教育、というより、偏った教育の怖さでも

あるのかもしれません。

 

私たちが何かを達成しようとする時、

0か1か、

黒か白か、

を際限なく重ねることで、

あらゆる物事を情報と捉えることで、

“間違いなく”

“確実に”

“処理し”

“対応できる”

ように、

“願いを込めて”

構築していきます。

“これ以上”

痛い思い、哀しい思いをしなくて済むように。

その先にある素晴らしい何かを

“絶対”“確実”に

実現することができるように。

 

たかが情報かもしれませんが、

そこには少なくとも、

基盤としての祈りがある、

少なくともあった、

と思います。

不思議ですね。

情報という0と1の世界を作って、

理屈で割り切ろうとすることのベースに、

祈りがあるなんて。

それが、

この世界の中で暴走しようとしています。

こんな世界が突き進んで、

Ghost in the shellのような世界が

出来上がるのでしょうかね。

(ちなみに私はこの作品好きです)

 

人は感情の動物である、と言われます。

いつも言う、

大切な“想い”を求め、実現しようとして、

私たちは時に苦しみ、

時に希望を持ちながら生きています。

その感覚、感性という、

属性的な、不確かなものを

少しでも確実にしようと、

情報というものが

あたかも全体的に寄与できるかのごとく

跋扈するようになった。

少なくともそういう面が

社会の中にはあると思います。

そして、そんな社会に大きな違和感と

生きづらさを感じるようにもなった。

 

これは、言い換えれば、

私たちが求めるものは情報そのものではなく、

その向こうに願った“想い”であるはず、

ということです。

“想い”とは、

夢、希望、幸せ、魅力、光、愛、

どう言い換えてもいいし、

もしかしたら

他者とのつながりでさえない

かもしれませんが、

一つだけ言えることは、

感性、感覚の世界の言葉である

ということです。

決して、理屈だけから

導くことができるものではありません。

デジタル情報で、

私たちが求める答えを最後まで

導き出すことは極めて困難です。

ネズミ人間は、それを

あたかも導けるようになる方法のすべてと

勘違いしてしまうようになる、

小室先生はそんな危惧を、

受験万能社会のネズミ人間として

表現したのだと思います。

他にも似たような指摘をされる方は

いらっしゃると思います。

本来、心を扱うカウンセリングは

そんなところに注意と敬意を払う必要がある

と考えています。

ということは、そこに深く関与する

登場人物である相談者の皆さまと

ご家族、友人、同僚などもまた

情報では割り切れない存在として

接し、寄り添うことは、

ごく自然なことだと思います。

 

理屈をこねくり回すことも必要である、

それを否定するつもりはありません。

ただ、そこに求められる限界もまた、

理屈として頭に叩き込んでおく必要がある。

 

理屈はいつも回り続けるだけなのだから

最初だけにしておきましょう。

ぐるぐる回って結論でないことを、

無理やり結論付けることなんて

必要ないと思います。

 

…理屈こねくり回してしまったかな。。。

 

ー今回の表紙画像ー

『町の夕景』

西の空が暮れなずむと、夜が意志をもって出番を待っている感じがするときがあります。