識者の見解より自分が大切

日々の棚卸

識者。

道理に通じ、知識や見識のある人。

有識者。

手元の国語辞典を見ると

そう書いてありました。

 

インターネットを見ても、

本屋さんにいっても、

今は心の関係、人の関係、

成功とは何かといったジャンルの本が

いくらでも見つかります。

セミナーも治療も今はオープンになって、

億劫がらずに足をのばせば、

毎日とは言わないまでも、

毎週何らかの催しに参加することができます。

目で見て、耳で聴いて、肌で感じて、

そうやって体得したことは、

大なり小なり血肉となって、

自分の目的を実現する貴重な財産になります。

何が、どんなテーマが、回答が、

財産となるかは人それぞれ。

 

私が相談をいただく時は、

その方の隠れた、そして真の望みを

汲み取ることができるよう、

心がけていますが、

その際に気を付けていることがあります。

それは、

私の答え、振る舞いが、

100%伝われば言うことはないのですが、

そうでなかったとき、

相談をされる方にとって

今一つピンとこない、

納得いかない、

そんな可能性もあるわけで、

その時々の状況に合わせながら、

それがおかしなことではないことを

言葉でお伝えする、ということです。

話を聞いてくださる方が、

自分の無知や無理解に

帰結してしまわれないようにするという

本来あまりに当たり前のことが

かつて自分がセッションを受けていた時などに

行われていなかったことに

何度か哀しくなってしまったからです。

 

何度も述べているように、

私は原家族の問題や

肉親の自死を経験する中で、

自分自身も苦しんで

のたうち回っていた時期があったので、

そういった多くの本や

あちこちで行われていた催し、

集まりを利用させていただきました。

その中で、

自分の根源的な苦しみに対応するヒントなど、

多くのためになることを学びました。

へえ、こんな考え方をすればいいんだ、

こう動くとこう見えてくるんだ、

という知識と実践の双方を体得できて、

それが哀しい過去を乗り越えて

今につながる自分になる

大切な環境を与えてくれたものでした。

 

一方で、

名のあるお医者さんや

著名なカウンセラーさん、

有名な啓蒙家さんなどの

セミナーやワークショップに出かけて

個人的な問いを伝えたり、

似たような問題を抱える方からの

質問への回答を聞いたり、

その際の言葉や態度を目にしながら、

自分が知りたい、

自分がほしい内容ではなかったことが

何度もありました。

多分に、

私の質問の内容や理解不足も

あったと思いますし、

同じ内容を聞き、目にして、納得し、

自分の問題を解決するきっかけとした方も

いるわけですから、

答えていただいたり、

説明を受けた内容が

おかしかったわけではなかったのだろう

とは思います。

 

ただこういったことは、

誰にも起こりえることで、

そんな時、

納得いかなかった自分、

受け入れられなかった自分の方がおかしい、

と自分を責めたり、

恢復をあきらめたり、

そうする方を見てきました。

特に、心が弱っていたり、

混乱していたりするからこそ

処方箋としての対処方法を

例えヒントでもいいから知ろうとして

足を運んでいるのに、

うまく理解できなかったから

自分がおかしいとなってしまうのは、

全くの見当違いの解釈です。

 

どうか、

そういったことを“勝手に”

思い込んでしまわないよう、

自分に合った解釈、

あるいは自分に合った場所の探索を

続けてください。

恢復とか、新しい人生というのが、

短い時間で見つかるのであれば、

こんな楽なことはありません。

ただ、識者・専門家というだけで

付き合いのない誰かに相談にくるということは、

長い煩悶の時間の末のことですから、

そこには一朝一夕では解決しえない

深く重い悩みがあるはずです。

ですから、

理解できないこと、

会話がうまくできないこと、

などを感じたrあ、

そんな自分をまかり間違っても

馬鹿にすることなく、

別のどこかに自分が求める回答がある、

そう受け止めてください。

どんな偉い人の説明でも

あるいは例え本物の神様の話であっても

わからないとき、

理解できないとき、

そこに受け入れられていると感じられないときは、

「自分には合わなかったんだ」

と前向きに考えて、

引きこもることなく、

自分の求める場所へ足を運ぶことを

続けてください。

 

“専門家”からのささやかな提案です。

 

ー今回の表紙画像ー

『アゲハ蝶 ~ 川の土手の草むらより』