他人の問題と自分の問題を分けて考え、
行動できることは大人の条件です。
それは裏を返せば、
そういう教育を自分に施すことで
体現していくことです。
偉そうに書きましたが、
私もできていないことが多いです。
家庭や仕事や人の付き合いで
問題が起こる、
悩みを持つ、
と考えるとします。
なぜだろう、
何がどうなって、
この問題が起こっているのだろう、と。
実際には考える時間は一瞬だったりして、
パッと原因(と思われる事象)とつなげて、
そこに対処しようとします。
「あ、そうか、これはこうなっているから、
ここをこうすればいいんだ」と
理屈だけで解決してしまうこともあります。
それはそれでいい。
しかし、そうはいかないことの方が
おそらくは多い…。
だから私たちは苦しむんですよね。
そう思いませんか?
問題の根が深いほど、
複雑であるほど、
その傾向があるように思います。
それはそうでしょう。
一朝一夕で解決するようなことで
人は悶々と悩んだりしませんから。
悩みや苦しみが長く続いていたり、
深く根を張っていたりしているとき、
そこには思考と感情の双方に
訴えかけてくる“何か”があります。
なぜ自分は苦しいのか、
何が自分をここまで苦しめるのか、
どうしたら自分がこの苦しみを
糧にして成長したり、
ここから脱したりできるのか、
そういったことを問いかけてきます。
その時、私たちは往々にして、
“理屈”で物事を考えます。
上で書いたように、
「これはこうなっているから、
ここをこうすれば…」と。
そこに、ヒントも何もなかったとしても、
“理屈”をひねくることはわかりやすい。
ライトの当たった場所は
なくしたものを探しやすい、
と同じ“理屈”です。
悩み苦しみの解決にとても重要なことは、
体の感覚です。
体の感覚は2つ。
1つは文字通り、
体の各部で感じる感覚のことです。
手足、胃、頭、首、腰、
そういったところに“宿った”、
痛みや違和感、浮遊感、
そういったものをしっかりと
確認してください。
もう1つは、
もう少し感情寄りの感覚です。
例えば、胸の痛み、疼き、ざわつき、など。
倦怠感、ぼんやりとした感じ、空洞感、
そういったことです。
思考はそのままでは
頭に浮かぶ言語で
物事を考えてしまいがちです。
しかし、
私たちが必要としていること、
まだ見ぬ答え、
新しい人生、
生きたい自分を導くためには、
体の感覚に思考を潜らせ、
都度それらを融合させる必要が
どうしてもあります。
言葉と行動は、それらをつなぐツールです。
言葉は言語といってもいかもしれません。
ともかく、思考だけを駆使しても、
表層的な堂々巡りが続くだけです。
ことに、
好きなことを探したり、
苦しんでいる真の原因を知ろうとしたり、
自分に合った生活や働き方を確認したり、
したいときには。
いつも、
遠ざけた自分、
見たくない自分と
邂逅して、
彼ら彼女らを受け入れ、
自分群の一人として一緒に生きる
ようにしようと話をしていますが、
その理由は、
邂逅するもう一人の自分の中に
痛みや違和感など、
それまできちんと応対してこなかった
体の感覚が
まだ見ぬ世界を知るための
“財産として”
眠っているからです。
ここが始まり、
あるいはターニングポイントなのです。
私たちは、
自分について、
自分の問題について、
自分の感情や環境について、
言葉を尽くして語り、
あるいは書き連ね、
自分の状況を理解しようとします。
同時に、
自分に従って繰り返し、
必要だと思うことを行動に移して、
思考だけでは理解しえなかったことを、
その先に見つけた何か、
その途中で体に宿った感覚、
そういったものに見出そうとします。
言葉を尽くして表現すること、
自分に従って行動すること、
この2つを正直に行い続けるうち、
思考と感情が融合するための
場所が私たちの中に生み出されます。
彼ら彼女らもう一人の自分と
巡り合う……ではなく、
もう一人の自分をしっかりと認識して
受け入れるとき、
語りつくされた言葉と、
繰り返し求めた行動とによって、
生み出された場所で、
抱えている苦しみ悩みに対して、
思考と感情が融合します。
ここがつながると、
理屈を超えて、
自分がその苦しみ悩みに対して
どうしたいのかが
自然に見えてくるようになります。
ちなみに、上で
巡り合う、ではなく、
認識する、と言ったのは
もともと自分の中にいるからです。
当たり前といえば当たり前かな。
いつでも会えるはずのもう一人の自分。
会えなくしているのもまた自分。
私たちは、人との関係にシンプルさを
望みがちですが、
そんなことからも、
自分との関係を見直す必要が
あるのかもしれませんね。
ー今回の表紙画像ー
『本日の夕景 ~ 町はずれの川べりより2』
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