親元を離れて自分の足で立って
生きるようになると、
それまで知らなかったことを
自力でこなす必要が出てきます。
食事、洗濯、掃除といった
日々の生活のよしなしごとから、
ちょっとした手続きや、
社会的な付き合いなどまで、
経験的に体得していくこともあれば、
念入りに調べたり、学んだり、
習得したりすることもあります。
そうやって少しずつ
自分の力で生きることの実感を
得るようになるのですよね。
私たちは育成環境の中で
体得したことをもとに
正しいと感じた証拠をどんどん集めて
自分の生き方の土台や方向性、価値観が
間違っていないと受け止めて
生きているのですが、
大方がそれに気づくのは
ずっと歳を取ってからのことです。
曲がりなりにも
人生に想像を絶するような挫折が
起こらなかったケースでは
ごく普通のことです。
自分の中にある思い込み、幻想を
強化していっている、とも言えます。
人生は山あり谷ありと言われるように、
現実にはそれまで順調だったと
思っていた人生に
青天の霹靂とも言える出来事が起こって、
それまでに自分が学んだり、
体得してきたことでは
どうあがいても論理的には対処できない
そんなこともまた起こりえます。
自分が起こしてしまったことも
あるでしょうし、
もらい事故のように、
家庭環境や人間関係の中で
降りかかってきたことも
あるかもしれません。
等身大で生きることの大切さは、
増長したり、
鼻高くなったり、
あるいはそんなことがなくても
収入や立場が上がった時の
自分への戒めとして、
説かれることが多いのですが、
なかなか言われないことで、
とても大切なことがあります。
それは自信を見失ったり、
何もかもがうまくいかないと感じたり、
世間の価値観からみて
お世辞にも自慢できるような生活ではないと
感じて落ち込んでいるとき、
等身大の自分を感じ、
それに沿って生きることの大切さです。
増長している自分への戒めとしてではなく、
打ちひしがれて
自分に価値を感じられないときに
しっかりと受け止め、
自分を勇気づけることです。
背伸びをしろ、ということではありません。
これまでに、
できていたこと、
やってきたことが
あるはずです。
あるいは、やってはいけないことを
やらなかったこともあったと思います。
やってきたことの究極は、
今ここまでちゃんと生きてきたことです。
命を投げ出さなかった。
学校に行って、
社会に出て、
時に休みながらも働いて、
何とか食べてきたのなら、
それは凄いことでしょう。
え? 働くことなく、
10年ずっと引きこもっていた?
10年も引きこもるなんて
誰にでもできるとは思えません。
その忍耐は誰もがまねできることでは
ありません。
同じように、
やらなかったことなら、
友達を売ったりしなかった、とか、
学校や部活をやめなかった、とか
いろいろあるでしょうが、
やっぱり大切なことは、
生きることを投げ出さなかったこと
ではないでしょうか。
何でもいいんです。
そんなことはできて当たり前、
そんなことやらなくて当たり前
当たり前、はありません。
そういったことをしっかりとやってきて、
今たまたまうまくいかずに、
落ち込んでいるような
状況に身を置いている。
もちろん中には、
自業自得のこともあるでしょう。
でもそれもまた、
誰もが経験することです。
私たちは直接
世の中に評価されるわけではないけれど、
良いものや素敵なものを
いくつも胸の内に秘め持っていながら、
自分でその価値を忘れがちです。
誰もが感銘するような風景を
いつでも想い描ける、
無理に押さえつけるというのではなくて
腹を立てずに生きられる、
新しく会う人が友達に感じられる、
人を責めない、
よく眠る、
毎朝しっかり起きている、
そんな些細なことです。
それらは決して、
世間の尺度で数値的に
“直ちに”評価されるものではないけれど、
分が気づいて受け止め、
いいよね、と認め続けていると、
不思議なほどに
自分の自分に対する感じ方が
よくなってくるし、落ち着いてきて、
それに従って世の中でも、
そのままの自分が認められるようになります。
等身大の自分とは、
そのようにして見るべきもので、
誰の中にもそうやって見ることができる
自分がしっかりあります。
大切にしてください。
なぜって、
あなた自身を作り上げている体や思い出や教えは、
当座の収入や成績などより
ずっと大切なもので
これからも守っていくべきものですから。
落ち込んだ時は、
等身大の自分に戻りましょう。
日常も、人生も、実は
その繰り返しだけではないでしょうか。
ー今回の表紙画像ー
『川の遊歩道』
青天の下、ジョギングしたり、野草を積みに来たりしている人たちに交じって散歩してきました。のんびりと過ごした一日でした。
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