癒されることがゴールではない

日々の棚卸

 

癒しの大切さが一般に浸透して

どのくらいになるでしょうか。

カウンセリングや心理療法に

縁のない方には

あまり一般的ではないのかな。

 

この場でも、癒しの大切さから、

ある種の疑わしさまで

何度か述べてきました。

理由はどうあれ、

ボロボロに傷ついた心を癒すこと、

ちょうど骨を折ったり

銃で撃たれたり

交通事故にあったりして

瀕死の重傷を負った体を労わるように、

その時々の自分の心の許容量を超える

ショックを受けた自分自身の心に寄り添って

癒すことは誰にとっても必要なことです。

 

一方で、癒しを求めるあまり、

それが全てになってしまったり、

与えられることをひたすら待って

それを得ようとするばかりなら、

それはおそらく

本来の意味では癒しではないし、

癒しともなりえなくなります。

何より、癒しを自己正当化と勘違いして、

癒さざるを得ない傷をつけた相手を

恨んで生きる原動力にしてしまう人まで

出てきている世の中です。

当人のためはおろか、

周囲をも混乱させてしまいかねません。

 

癒しを得るには、

本を読んだり、セミナーで学んだりして、

それらを実践することもあれば、

私のようなカウンセラーの力を借りて

行うこともあります。

そうやって、

癒された方がそれでOKかというと、

OKになる人もいるけれど

大体の方はそれで全てが解決と

なるわけではないようです。

 

癒された、受け入れられた、

そう切に感じられたとき、

そこで初めて今度は

自分で納得する人生を歩き出すための

スタートラインに立ったことが、

うっすらと理解できるようになります。

次のステージを求める自分に気づくんですね。

最初からわかってはいたことだけど、

そこに来て初めて“実感”するのです。

 

しっかりと癒されたことを認めると、

今度は自分で自分を“律する”術を

学ぶ必要性を感じるようになります。

癒されたということは、

受け入れの土台が整った自分を

感じられたということだから、

その状態を自分なりに維持するためには

日々の過ごし方や心持ちを

暴走させたり、混乱させたりして

せっかく得た状態を失いたくないと

祈りにも似た感覚で願うからです。

 

“律する”の中には、

自分を追い込み過ぎないために

自分の状態を冷静に感知し、

抱擁したり、

受け入れたり、

癒したり

することを含み、

どうしてもうまくいかなければ

誰かに相談して

自分の状態を調整することをも含みます。

様々な方法を駆使して、

自分が日々歩いていくために

自分で自分を勇気づける術を

体得するわけです。

 

人に依存した状態は

必ずしも悪ではないけれど、

弱者だと自分を位置付けて

一方的に依存してしまわないための

相互依存の大切さは、

自分に大切な人がいる方は特に

体得を望まれることで、

そのためには、

自分を癒し、

受け入れた後、

根付いてくる自尊心に沿って、

自身を勇気づけることが必要です。

勇気があるということは、

自分を信じられるということであり、

完璧ではない自分を受け入れられることであり、

必要と感じれば人に依存することもできる

ということなのです。

人とつながりながら、

自分が納得して生きていくための

コツのようなものかもしれませんね。

 

ー今回の表紙画像ー

『公園もクリスマスの準備』