選択する言葉。
私たちが持つ表現方法の一つ。
それは、生まれ育つ中で身に着けてきた
生き方の表れであるとともに、
これからを位置付け、予見する
指標の一つにもなると思います。
目は口ほどにモノを言う、とあるように、
最初に出てくるのは口からですが、
その人が発する言葉を聞き続けていくと、
どんな人生を送ってきて、
これからどんな方向に向かって
生きようとしているのかが、
見えてくる場合があるということです。
そんな言葉による表現について、
私たちがともすれば忘れがちなことに
“触れて”見たいと思います。
言葉が意思疎通の手段であるならば、
言葉を聞く側にとって臨場性を表す
表情、口調、声音、目つき、
身振り手振りなどは、
意志を伝える大きな役割を果たします。
身に着けている服や場所も
関係するかもしれません。
そういう意味では
その人が真剣に意思疎通しようとする際の
空間全体が影響するとも言えます。
そこには、言葉を放つ人が伝えようとする
意志、意味、の裏側にある、
気持ち、感情、想いが含まれています。
特に、その人自身が意識していないこと、
無意識の中で常に核として存在する
価値観のようなものが隠しようもなく
滲み出ていたりするわけです。
話し手が口下手だったり、
言い回しに慣れていなかったりした時、
聞く側にとっても、
一度の疎通で何もかもを感じ取ることは、
なかなか難しいかもしれませんが、
何度か接しているうちに
そういった臨場性や滲み出てくるものが
伝わることによって、
相手の伝えようとすることが
少しずつ感じ取ることができるように
なってきますよね。
コミュニケーション(Communication)という言葉は、
意志の通じ合いを意味します。
私たちが仕事や家庭で問題が起こるときに
よく問われがちな原因の一つが
コミュニケーション(不足)。
自分が伝えたいこと、
自分が言いたいことが伝わらず、
伝えなくともわかるとして、
それが相互に発生した時に起こる
齟齬こそが問題を起こすのだ、と。
もちろんそんなこともあるでしょうが、
家族にせよ、
会社、共同体などの人の付き合いにせよ、
そこにはもう一段深い齟齬があるからこそ、
起こっている場合がほとんどだと思います。
その時の対処方法として、
とにかくまず自分が遠ざけている
自分自身を受け入れることの実践を
いつもお伝えしていますが、
それとは別に、
自分の伝え方を後々のためにも、
振り返ってみることは
それと同じくらい大切なことかもしれません。
私たちはどんな時も
自分をうまく伝えることに苦労します。
私自身も拙い表現によって、
日々発信をしているせいか、
そのことを痛切に感じています。
受けた相談に対して
伝えたいこと、わかってほしいことが
重要であればあるほど、
そこには伝える意味とともに、
感情、想いが含まれているはずで、
それを単に意味として扱うコミュニケーションは
伝わるレベルにどうしても限界があります。
必要なことは、
“ふれあい”という言葉から醸される
ノンバーバルな領域まで含めて
想いを相手に適切に伝えることです。
何も実際に相手の体にさわる、
という意味ではありません。
こんな気持ちだ、
こんな想いなんですということを、
その表現方法まで含めて
もう一度振り返ってほしいのです。
激しい口調で話す必要はないし、
派手な演出が必要なわけでもない、
ただ、真摯に自分が伝えたい想いを
ほんの少しでも相手の立場に立って
どう伝えれば伝わりやすいかを
自分なりに慮って、
自分の言葉で伝えます。
そこが不十分なまま、
齟齬が互いの無理解と決裂に
つながってしまうことは、
哀しいし、もったいない。
せっかくこの世界で出会った人たちと
つながることに後悔しないために、
よく使われる“コミュニケーション”よりも
“ふれあい”ということを意識して
人とつながることを実践してみてください。
私たちは神様ではないので、
誰とでも生き生きと仲良くする、
ということはなかなか難しいですよね。
でも、だからこそ、
そこにいない架空の馬が合う人を求める前に
今目の前にいる誰か、
今身近に接している誰かを
ほんのわずかの間でよいので、
遠ざけることなく
触れ合うつもりになってみては
いかがでしょうか。
ここでいう、
目の前にいる誰か、
身近に接している誰か、
その最たる人は、
あなたが遠ざけ、忌み嫌っている
あなた自身の一部かもしれませんけどね。
自分に向けて、
真摯に接していますか?
ー今回の表紙画像ー
『近所の神社』
初詣の準備が終わっていた。。。
最近のコメント