1.ポジティブとオプティミズム
ポジティブとオプティミズム。
双方とも、人生をより良く、楽しく
生きていくために必要な要素として、
心理学ではよく使用される言葉です。
米国の有名な心理学者である、
マーティンセリグマン氏は
オプティミスト=楽観主義者が
成功しやすいことを、
いくつかの実験により証明しています。
問題が起こっても、
「何とかなるよ、自分なら乗り越えられる、大丈夫」
と無碍に自分を責めることなく
寄り添いながら生きていくことが
大切だということですね。
ポジティブはオプティミズムより
さらによく使用されるイメージが
私にはあります。
皆さんはいかがでしょう。
ポジティブとは、
どんなひどい状況、悪い出来事にも、
良い面があるという捉え方を
意味します。
物事には良い面があるもので、
良いところを見るようになれることが、
良い人生を歩み続け、
あるいはよくない人生を好転させる
秘訣であるということ。
しかし一方で、
そんな解釈はただの誤魔化しだ、
という意見もあるようです。
どう解釈したところで事実は変わらない、と。
私は、前者の立場にいます。
事実は変わらない、という意見にも
一定の理解はしますが、
肉親の自死を経験した後では、
事実ばかりに目を向けることになり、
その出来事の背景に潜む
故人が抱えた物語や、
自分の解釈も一面的に過ぎないという
もう一つの“事実”を見逃すことになる
という矛盾を生じてしまうからです。
それは、自分のためにも、
自死した親のためにも
当時の自分を支えてくれた周囲の人のためにも、
つまり誰のためにもならない考え方です。
そして、他責にする生き方でもあるのでは
ないでしょうか。
ポジティブの効用とは実は、
ともすれば狭くなりがちな
自分の世界を俯瞰することで、
自身に与えるダメージを軽減し、
新しい道を見つけ出す
きっかけになることだと思います。
2.ポジティブなんて感じられるわけがない
そうは言ってもポジティブなんて
とてもじゃないけど感じられない。
そういう方もまた少なくありません。
そこでというか、
自分のことを振り返ってみました。
ポジティブなんて感じられるわけがない。
振り返ってみるまでもなく、
そんな時期が確かにありました。
行きついたのは、とにかく
日常の何もかもが苦痛で仕方がなくて、
しかもその苦痛に限界を見出すところまで
感じ切っていなかった。
例えば…。
毎日の仕事は、朝眠い目をこすって
通勤するしかない。
電車の中では朝からよれよれ。
何かをしようにも、睡眠不足と言う名を借りた
不平不満が蓄積されて思考が回らない影響で
まともに手につかない。
やりたくない仕事を給与をもらうためにこなす日々。
頭の中は、文句と愚痴が渦巻き、
体は朝から疲労困憊の状態。
今ならきっと、メンタルクリニックに駆け込めば
鬱か適応障害と診断されて、
投薬しながら日々を過ごし、
もう限界とつぶやいていたはず。
…そんな日々を今も多くの方が送っておられる。
そんな日常のどこにポジティブがあるんだ!
そう叫びたくもなります。
その気持ち、よっっっくわかります。
ポジティブをどう解釈するかにもよるけれど、
ラッキー・嬉しい・もう最高、と
遠い昔にどこかで流行った言葉で糊塗されるような
きらきらした状態を想定していると、
それらの感覚と現実のギャップによって
ポジティブな状況なんて、
もう未来永劫まで訪れないような感覚に陥って、
それがますます疲労や不安を呼ぶ。
中には、それらの状況から逃れるために、
転職したり、
資格取得に動いたり、
大学に戻ろうとしたり、
新しく事業を起こそうとしたりする方もいて、
数字の上ではうまくいったにもかかわらず、
自分のメンタル面、感情面が
何も変わらず苦しいままであることに気づき、
愕然としたりします。
何だこれは…。
そう感じるのは仕方がないことかもしれません。
3.ポジティブはどこへ行った?
理屈で全てが賄えるならいいけれど、
ポジティブと言う言葉のとおり、
情動に纏わる領域の感覚を
理屈で補うことは簡単ではありません。
心のこと、感情は、頭ではなく
体や内面の感覚に注目することから始める
とも言われる所以です。
「今、何を感じてる?」
「体のどこかに違和感はない?」
そうやって、感覚を頼りに、
自分でも気づかないうちに
体や情動に現れる囚われを探っていくことは
臨床心理の世界ではよく行われます。
一方で、このポジティブ、
身に着けるための私なりの実践方法は、
まず最初は頭から入ることです。
感情に注目し、
感じられない人に
感じるようになるために
感じることを
感じよう、
などと、
わけのわからないことを言われたところで、
実行できるものでもないからです。
ポジティブとは物事の解釈が心身の感覚に
学習によって落とし込まれた状態なのです。
心理学では、人は感情を選択している、
と捉えていますが、
これはポジティブの説明にも有効です。
生まれ育った家族の中で、
起こった出来事、
人の表情や発言を、
どう受け止め、
どう行動していくか
を学び、
社会に出てからは
その学びを正しいものとして
強化する方向に解釈することを
私たち人間は繰り返します。
その中にポジティブの要素が
含まれていなければ、
ポジティブは存在しないし、
哀しい出来事や辛い出来事、
取り返しがつかないと思い込んだ出来事によって、
表層的に知っているポジティブという感覚が
薄れてしまっていることが起きていると
考えられます。
4.ポジティブは与えられるものじゃない
前述のとおり、ポジティブとは、
理解から感覚に落とし込んでいく
学習によって身に着けるものです。
こう書くと、スパルタチックに
聞こえるかもしれませんが、
私たちが身に着けている感覚の中の多くは
後天的に日常生活の中で
(主に親から)学習したものです。
そういうわけで、大人になった私たちは、
自ら選択してポジティブを身に着けていく
ことができるはずです。
以下に実践方法を記載しました。
よろしければ試してみてください。
(1)今の自分の立場に大親友、彼・彼女、小さな子供を置いてみる
(2)寄り添いながら、具体的に何で困っているのかを考える
(3)今起こっている辛く苦しい出来事を俯瞰してみてみる
(4)辛いこと、苦しいことを別の角度から見て、良い面を探す。このとき、余裕を見出せる解釈を考えてみる。
例えば、
・お金がない→すぐに飢え死にしたり、住む場所がなくなるわけじゃない
・仕事がなくなった→働く場所を選ばなければいくらでもある、その中からやりたい仕事を探すのに少しでも都合が良いモノを選ぼう
(5)自分が不安や焦燥感を感じるたび、(4)を思い出し、言い聞かせながら、行動する。
学習性無力感という感覚もまた、
冒頭のセリグマン教授が
実験的に確認した後天的学習能力の一つです。
今やったら動物虐待の非難を免れませんが、
ワンコを柵の中に閉じ込めた上で、
ワンコが痛みを微妙に感じる程度の
微弱な電流を床に流すというものです。
最初は痛みから逃れようと
床の上を逃げ回っていたワンコは、
かわいそうに最後は、
微弱電流が流れても、
床の上に臥したままになるそうです。
…これはあまり良くない例かな。
子供の頃から、
かわいい、きれい、と言われ続けた女の子や
ハンサム、格好いいと言われ続けた男の子が
自分のことをそう信じて疑わないというのも
典型的な学習です。
ポジティブの本質は、
ない、を、ある、に変える
発想を持つことです。
当然、その感覚と
それが積み重なって得られる効用を
感じたことのない人には、
机上の空論、砂上の楼閣にしか
感じられないかもしれません。
つまり、(5)までは
頭で行ったことであり、
当然、一度や二度行ったからと言って、
即ポジティブになれるわけではない、
ということです。
価値の刷り込みと言う観点から
一つ例を挙げます。
手塚治虫さんの火の鳥を待つまでもなく、
最大の親孝行とは
将軍が食す料理のために子供自身が
己の身を差し出すことだという時代が
某国にはありました。
同じ某国では人肉市場が成立した時期もあります。
おどろおどろしい話で申し訳ありませんが、
これは、他の誰かの物語などではなく、
私たちと言う存在が価値を刷り込まれて
生きていることの一つの極端な例を示しています。
物事には、必ず良い面があるものです。
もちろん、私の父のように
自死などの哀しい出来事には、
良いも何もあったものではない、
と言う受け止め方もあるでしょうし、
実際私自身がそう感じていました。
しかし、そこに至るまでに直面した
いくつかの出来事をポジティブに解釈して
感情に落とし込んで実践していくことが
できていれば、
もう少し別の道があったと悔やまれもします。
自分ができること以外に対して、
悪く解釈していることは一つの囚われ、
特定の価値観の牢獄を自ら作り出して
そこにはまっていることだと思うのです。
今いるその場所で、
辛いこと、苦しいことがあった時に
動けなくなっているとしても、
できる解釈はあると思います。
たかがポジティブ、されどポジティブ。
日ごろ、あまり頑なに考えることなく、
ちょっとだけ緩やかな解釈をすることを
心がけ“続けて”いると、
いざ行き詰ってしまったというときに
威力を発揮するはずです。
というより、
決定的な行き詰まりに陥る前に
方向転換することができるようになります。
私もともすればまだ、
悲観の連鎖で物事を考える癖が
抜けきっておりません。
一緒にやっていきましょう。
ー今回の表紙画像ー
『いつもの公園の花壇』
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