あけましておめでとうございます。
ご挨拶が遅くなり、すいません。
お正月はゆっくり眠れましたでしょうか?
年明けから悶々として眠れなかった?
私はいつも通りぐっすり…
といいたいところですが、
年始に2日ほど、
どうしても寝付けない夜がありました。
その時、おかしな話ですが、
ちょっと懐かしく思ってしまったんです。
ああ、こんな感じがあったな、と。
眠りたいのに眠れない夜。
眠れなくて、
眠りに落ちる扉を探して、
寝返りを打って、
でもやっぱり、
意識は目覚めた状態のままで、
焦りが出てきてしまう…。
しかも、
そんな時に限って、
徐々にイライラが募り、
益々目が冴えてきてしまったり…。
それは昔、
私が眠れない時の
典型的なパターンでした。
眠れない夜って、
大きく二種類あると思います。
よくわからないままぼんやりとしたまま、
気がつくと夜更けまで起きている時と、
焦燥感が募って、
眠りとかけ離れた感覚に陥るときと。
ちなみに、寝すぎで眠れない、は除きますよ。
ともかく、
こんな状態が余りに長く続くようなら、
チョット困りますね。
長く眠れない夜が続くことは、
私たちの内面が起こすことです。
私たちの奥底にある感覚が、
何かを伝えようとしているのだと
今はかなり明確に理解できます。
仕事で行き詰っているのが原因なら、
そのやり方でよいのか、
その仕事があっているのか、
その働き方でよいのか、
その場所でよいのか、
疲れすぎていないか。
腹立ちや苦痛をもたらすほど
脳裏から離れない人が原因なら、
その関係性でよいのか、
その距離でよいのか、
同じ時間にいる必要があるのか。
日常の些末なことに埋没しがちな私たち。
つい目の前の些事に注力するうち、
生き方そのものを見直したり、
望む未来を見つめなおしたり、
自分自身とじっくり対話したり、
といったところまで
人生そのものを振り返ることを
つい怠ってしまいがちです。
でも、体は正直です。
無意識は正確です。
極論すれば、体とは無意識です。
あなたが決めている世界の骨格を
体現させています。
コア(核)にいる、もう一人のあなた。
そのあなたが、
言語ではなく、感覚で
メッセージを送ってきている。
そういうことだと思うのです。
『バカの壁』の養老先生は、
意識にばかり注目するな、と言っています。
理屈で考えることなど、
たかだか知れている、と言っているように、
私には思えてなりません。
眠っている間、
私たちは決していなくなるわけではない、
では、意識はどこに行っているのだ、
とも問いかけていますからね。
年が明けてすぐ、
叔母が他界しました。
私の両親が存命中、
原家族には長く、
哀しい時期がありましたが、
両親が混乱して
親として機能していなかった時、
自死者が出てしまった時、
子供たちはどうしてよいかわからず、
自分を責め続けていました。
その頃の弱り果てた私を含め、
何くれとなく世話を焼いてくれた人でした。
母が他界したときも、
いの一番に駆けつけてくれました。
若造だった私が職場の人の関係で
腹を立てていた時には、
人はいつか死んでしまうんよ、
だからあんまり物事にこだわっちゃいかんよ、
と諭してくれたこともありました。
眠れないまま、クローゼットから
大昔のアルバムを取り出して
お酒を飲みながら見ていると、
家族の写真にまじって
生後3か月の私が叔母の膝の上に
抱かれている一枚が出てきました。
ぼんやりとページを繰りながら、
脳裏には、子供の頃からの
叔母との思い出が走馬灯のように
映し出されてきました。
叱られたり、
お小遣いをもらったり、
ご飯を食べさせてもらったり。
もちろん先述のとおり
原家族がおかしくなって
行き場がなくなっていた頃の私が
自分を責めることがないように
慈しむ言葉をかけてくれたことも。
気がつくと、
顔がぐしゃぐしゃに涙で濡れていて、
鼻水で鼻が詰まって啜り上げていました。
一方的にお世話になったまま
何もお返しができなかった。
そんな悔い・悔しさ・哀しさが相まって、
最後は声を出して泣いてしまいました。
そうやってしばらく涙を流し、
温めの湯船につかり、落ち着いてから
寝床に入ると、
前日までのことが嘘のように、
朝まで目が覚めることなく
眠りました。
心の血肉になっていた大切な一人が
この世を去ってしまったけれど、
涙を流す中で、
その記憶、想い、教え、
そして言葉にならない肯定的な感覚が
もう一度私の中に根付きなおしたのだと
今はよくわかります。
それはそのまま
明日を生きる原動力ともなると同時に、
これから自分や他者とどう接して
どのように生きるかの
示唆をも示してくれました。
眠れない夜に限りません。
食べられない日々、
声が出せない日々、
引きこもり、人を遠ざける日々、
恐怖で震える夜、
怒りがとまらない時間、
抑鬱に苛まれる日々、
…。
どれもが、
痛い、苦しい、となる前の、
体の記憶・無意識からの
大切な、ほんとうにたいせつなメッセージでは
ないでしょうか。
そう受け止めなおしてみると、
体も無意識も、
私を守ってくれている
もう一人の私なのだと思います。
ー今回の表紙画像ー
『二年参りに行ってきた』
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