本音でやりたいことと、
世でいうところの何者かになること、
この二つは時折、
個人の中で正反対の意味になります。
本音でやりたいこと。
例えば、
今の仕事と違う、もっと華やかな仕事をする、
独立起業する、
といったことから、
一日中寝ている、
一日中飲んだくれている、
一日中ボーっとしている、
1年間映画見続ける、
栄養無視して甘いものを心行くまで食べつくす、
未来のことは考えずに好きな洋服を買い集める、
仕事を辞めて放浪する…。
一方、世でいうところの何者かになること、
というと、
全盛期よりはずいぶん廃れたけれど、
安定した一流企業に入って
ステータスと高給を獲得する、
Youtuberを始めとする
ネットのインフルエンサーになって
自分の存在の影響を与え続ける、
あるいは、
やったところで賛同者は得られないけれど、
もっと下賤に、
気に入らない人を扱き下ろして
仲間内や家族で笑いの種にする…
どこか、
幸せ、心の平安、大切な人々の安寧を願う
ということと、
お金をたくさん儲ける、一定の地位を得る、有名になる、
というか
自分が正しく優れていることを認めさせようとする、
そういうこととの関係にも似ていますね。
どちらが良いとか悪いとかを
問題にしているわけではありません。
正しさの客観的な指標など、
人の数だけあるから。
必要なことは、
正しいかどうかより、
自分が納得できるか。
doingよりbeing、
つまり、自分が何をするかより、
自分をどう感じ、認識しているか
それが大切と言われることがあります。
でも、正確にはdoingもbeingも大事。
双方が互いに影響し合い、
私たちの内面世界を形成しているから。
生きるということは、
人生に自分から働きかけていかないと
寂しく感じるものです。
ほんとはそんなことはなくて、
自然も人も、
自分を見守ってくれているのだけど、
超能力者ではない私たちは、
淋しいが先に来てしまって、
気づきづらいのもまた事実。
自分は確かに、そんな時があるなあ。。。
感情の根っこの太い一本は、
少なくともそこにつながっていて、
だからどこかで、
自分以外の誰かに、
自分の存在を、
自分の行いを、
認めてもらいたくなる。
繰り返しますが、良い悪いの話ではないです。
良い悪いの話ではないですが、
ただ、順序はあった方が生きやすい、
そう思います。
特に、今の生き方が迷いに取り込まれているなら。
この状況に苦しんでいる人は、
過去に抱えた大きな軋轢や相克、
それも自分の力では
どうしようもなかったことに、
今も多大な影響を受けている、
いえ、魂を縛られている、
そんなことはないでしょうか。
空回りしている、
何をしたらよいかわからなくなっている、
迷いで動けなくなっている、
そういう時間が続いているなら、
まずこうしてみてはいかがでしょう。
何者かになろうとするのをやめて、
自分の体と向き合う、
自分の過去と向き合う、
自分の生き方と向き合う、
自分の見栄と、自分の欲求と向き合う、
そして願わくば、
自分の胸を締め付けてくるような
大切な想いと再会する。
それは、自分が自分たるヒントでも
あると思うのです。
そんな状態で『試しに』何かをしてみてください。
例えこれまでと同じことをしたとしても、
何か感じるものが変わりませんか。
そうやって、
突き動かされるところまで行けるなら
それにこしたことはないけれど、
それはマストなんかじゃないんです。
コツは、自分を受け入れること。
続けているうちに気がついたら、
何者かになっていて、
想像もしなかった場所に立っているものです。
ここに1つの実例があります。。。
ー今回の表紙画像ー
『八幡野から伊豆大島を望む』
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