自分はいったい何をやっているのだろうと思ったら

日々の棚卸

 

何かが当たり前にある前提で、

さして望んでもいない、そして

価値が感じられない目先の成果を

どうやったら得られるかに、

あくせくとしていた時期がありました。

 

実際、目先と言う言葉の通り、

傍から見れば

たいしたことではない場合がほとんどでした。

 

今振り返っても、

そんなところに感情むき出しで争うなら、

もっと別の発想と行動があるだろうと

突っ込みたくなってしまいます。

 

少なくない人が同じようにして

日々を生きていると伺っています。

 

当たり前にあるという前提…。

 

例えば、いつまでも

体が元気に動いている、

自由な時間がある

親がいる、

“今の状態″の収入が続く

……

いつまでも生きていられる…。

 

例えば、いつまでも

愛した人が一緒にいてくれる

憎む相手が生きている、

いつか

親や伴侶が変化する可能性がある

…。

 

その前提を現実・事実と思い込んで、

生きる方向と指針とを見失っているが故に、

何もかもがうまくいかなくなって、

日常が回らなくなっているという

もう一つの現実に気づくまで、

 

空回りの時間と、

そこで疲弊し、傷つき、塞ぎこみ、

なぜ自分はこんなに苦しいのだ、と

嘆く日々が続きます。

 

自分の本音で価値を感じられる世界ではなく、

画一的な成功なるものに

自分を合わせ込もうとした結果、

 

その中で病んでいく自分を

作ってしまったのかもしれませんね。

 

成功のはずが、

成功の否定になっていた。

 

時々引用させていただくドラッカー氏は、

もうこれ以上の画一的な成功はいらない、

と言っていました。

 

その真意は何だろうと考えていたのですが、

少なくとも画一的な成功は成功ではない、

と言っているようにも感じます。

 

これだけ多様な社会の中で、

成功の画一性などないのでは、

と当時は思っていたけれど、

 

それなりに年を取って、

その間に多くの悲しみや楽しさを味わって、

それなりに多くの人に出会うと、

その人らしさと成功の関係性に対して

同じような気持ちになります。

 

これは結局、優先順位をどう考えるかに

尽きるのかもしれません。

 

以前、別の件で触れた

『フレンズ』という古い映画があります。

 

1970年、英仏合作の

15歳の少年と14歳の少女が主人公の、

駆け落ちして子供まで作ってしまう古い物語。

 

当時、ちょうど家族が離散して、

もう一つの人生があれば、と

アルコールとともに現実逃避していた世界でした。

 

で、物語は、と言うと、

 

仕事依存の銀行家の父と継母と暮らす、

大金持ちの家の息子と、

 

最後の肉親だった絵描きの父親を亡くして

パリで暮らすパーティ三昧の親類を頼って

やってきた少女。

 

居場所のない二人が出会って、

駆け落ちするようにたどり着いたのが

かつて少女が父親と暮らしていた田舎のコテージ。

BGMはエルトンジョンでした。

今はレアマスターズとかいうアルバムに

劇中の音楽が

 

映画の出来栄えなるものは置いておくとして、

述べたいことはただ1つです。

 

その日の食べ物にも困り憔悴した二人。

 

洗濯物を干す少女に

苛立った表情と口調で

やりきれなさを吐き出すようにして少年が問います。

 

「What are we doing here?

(ボクたち、ここでなにやってるんだ!)」

 

「Living here…(暮らしているの、生活しているの)」

少年の方を振り向くでもなく、

俯きがちに少女が答えます。

 

それ以上でも以下でもなく、

好きな人がいて、そこで生きている。

 

その後ふたりは衝突を繰り返しながら、

やがて子供をもうけ、

家族になります。

 

その後、少年の父親が依頼した

警察の捜査によって3人の暮らしが発見され、

最後は引き離されていきます。

 

 

自由と可能性に満ちた、

私たちが暮らす資本主義社会。

 

孤立に怯えながら打ちひしがれて、

自分を卑下しているのは、

決して悪いことをしたからではないですよね。

 

会社が望む成果、

夫(妻)が望む生活、

世間なるものが評価する何か、

 

自分の本音の価値とかけ離れた成果を

達成することができなくて、

気がつくとまるで悪いことをしているかのように

怯えていたりしないでしょうか。

 

この世の中では頑張れば、

何らかの形の成功を達成できる。

 

そう教えられてきて、

それが大前提となっていて、

 

そのためには、

好きなこと、得意なことから入ると

早いよと学んだ人は

少なくありません。

 

私もその口で、

別にそれが間違いだとは思いません。

 

ただ、

メディアや教育で示される

成功は画一的で、

あるいは抽象的で、

 

それがあなたにとって何なのか、

本当は何を求めているのか、

 

それが自分の中にないと、

 

あるいは、

少なくとも行動しながら問い続けないと、

 

成功物語と世の中の目標なるものに

のみ込まれて、

生きる土台が崩れてしまう。

 

そんな本末転倒が、

あちこちで起きているように感じられます。

 

「Living here」が全てでは

もちろんありません。

 

欲求としてのお金や豊かさを求めるのは

私たちの中に組み込まれているからです。

 

ただ、そこにあることが当たり前だと

感じていることは、

 

ほんとうは当たり前でも何でもない、

そうではないでしょうか。

 

そして実は、

そういったところに目をきちんと向けられた時、

あなたにとっての成功とは何か、が

きっちり認識できるのではないでしょうか。

 

安全とか衣食住と同じくらい

その人が必要とする根本的なもの。

 

それがしっかりわかっているかどうかで、

生きている意味や人生そのものを

本質的に理解するための『当たり前』は

いつも目の前にあります。

 

私はいったい何をやっているのだろう…

そう感じて迷い、疲れ果てたなら、

そこに戻ってみてください。

 

ー今回の表紙画像ー

週末、『建部凌岱展 その生涯、酔いたるか、醒めたるか』に行ってきた。

18世紀の絵師だけど、この当時既に、絵のために列島を北から南まで歩いていたのにちょっと感銘を受けた。

気のせいか館内に入る前より、赤塚公園の桜の彩が艶やかに見えました。

展示館から講演を望む

桜の季節なんだなあと今頃思う。