終わりが感じられない苦しみの裏側にあるもの

日々の棚卸

 

苦しみが続く出来事の解釈を

どのように変えてみても、

 

再現なく落ち込み続ける自分に

どのように対処しても、

 

終わりが感じられないときがあるでしょうか。

 

毎日、

 

追い詰められて、

叱られ続けて、

アップアップで、

 

眠れなくなっていたり、

わけもなく焦りが募ったり、

妙に苛立ったりして、

 

自分がどうなっているのかも、

何を感じているのかも

わからなくなっていて、

 

ただもう、ひたすらに、

 

永い休みに入りたい、

どこかに逃げ込みたい、

そこから居なくなってしまいたい、

 

そんなときがあるでしょうか。

 

私にはそんな時期があって、

そのカラクリを理解するまで、

その世界に閉じ込められていました。

 

 

私たちの意思や価値観は、

それまでに培った経験や知見に基づいて

作られています。

 

とても難しい言葉で言うと、

認識性と存在性に基づいている。

 

どういうことかというと、

 

私たちが世の中をどう見ているかによって、

出来事の受け取り方が決まります。

 

これが認識性。

 

私たちがどう受け取ったかによって、

今度は世界への振舞い方を決める。

 

これが存在性。

 

何だ、そんなの当たり前だ、と

思われるでしょうか。

 

認識と存在の話を聞いた時、

私は特に意識することもなく、

そう思いました。

 

そんなの当たり前だ、と。

 

そしてそれが、

私(たち)を閉じ込めている世界です。

 

もっとも、閉じ込めている、と言う表現は、

その世界にあることが苦痛である人の場合。

 

それなりに何とかやっていて、

それなりに幸せを感じる時もある人には、

開かれていると感じているかもしれませんが。

 

 

頑張らなくてよい、と言う言葉が

メンタルの恢復や成功に向けた言葉として

使われるようになって久しいですが、

 

ご存知のように、これは、

何もしなくてよい、と言う意味では

ありません。

 

誤解を恐れずに言えば、

ケージの中のハツカネズミが回し車の内輪を

ひたすら走り続けるようなこと、

 

つまり、頑張ること、をして、

 

ゴールが見えない=結果が得られない、と

嘆きや憤りの中で心身が疲弊してしまうような

状況にないかを確認しよう、

 

ということを言っています。

 

でも、ではそうならないためには、

つまり、回し車から降りるためには

どうしたらよいか、

 

それがわからないから、とりあえず、

頑張らなくてよい

=それ以上一生懸命走る必要はない、

 

となるわけです。

 

では、それで?

 

頑張らなくてよい、と言われて

でも、生活を支えたり、人と関係を持ったりする

最低限のことはする必要がある。

 

で?

 

次に考えることは、

なぜそれをしているのか、

ということです。

 

仕事のことなら、

 

待遇とか、

ネームバリューとか、

収入とか、

 

いった選択の基準が

あるのではないかと思います。

 

人の関係なら、

 

あいつは面白いから、とか、

自分を相手にしてくれるから、とか、

彼女となら拍がつくから、とか、

 

いったことがあるのかもしれません。

 

ここではあえて、

やりがいだとか、安心、信頼といった類を

入れませんでしたが、

 

実際のところ、

理由は何でもよいと思います。

 

ただ、繰り返しますが、

苦しい、追い詰められている、そこに居たくない、

如何ともしがたくて、行き詰っている、

…のですよね?

 

ではなぜ、

そこに居て、

そういうことをしているのでしょうか。

 

「だからさっき言ったろ」ではなくて、

もう少し掘り下げてみてください。

 

なぜそうしているのでしょうか。

なぜその仕事をしているのでしょうか。

なぜその人とそんな関係なのでしょうか。

 

…ホントに選択肢はないのでしょうか。

 

今は既に、

何となくそうなった、と

感じているかもしれません。

 

でも、人は意味のないことは間違いなく

行いません。

 

ことに、苦痛に苛まれ、魂が弱り果て、

行き詰っているにもかかわらず、

どうしようもないと感じているなら、

 

そこには何か別の意味が

隠れてはいないでしょうか。

 

 

生きていく上での価値観を作り上げる際、

基準、ではなく、外したくない“大切なこと”が

あるはずです。

 

常にダイレクトに意識しているわけでは

ないかもしれませんが、

 

人生の様々な節目で選択を行う際に、

 

こんな生き方を選択したら、

自分は“大切なこと”を

大切にできなくなってしまう、

 

そんなことです。

 

あなたの中には、

あなたの心の血肉となっている原風景が

息づいていると折に触れて伝えています。

 

今が、どんなに辛かったとしても、

どれほどの哀しい出来事があったとしても、

 

あるいはそれが、

どれほど身近だったりあり得ない関係の中で

起こったことだとしても、

 

その裏側、向こう側、奥底には、

あなたが捨ててしまわない限り、

 

あなたの心を不可逆的に破壊するところまで

追い込ませることがないように、

守ってくれているものがあります。

 

それが心の原風景です。

 

夏の朝の清々しい空気の匂いや

真冬の夜のしんと凍てついた大気の冷たさ、

 

母親の夕飯の支度の音、

テレビから流れてくる声、

友達と出かけた映画館の匂い、

 

夢中になって読んだ本、

気がついたらのめり込んでいたドラマ、

無心にボールを追いかけた日々。

 

身近な誰かと笑ったこともあるはずです。

 

きっと少し時間をかければ、

そして少しだけ嫌悪や哀しさという

心のブロックを外せば、

 

たくさん思い出すことができるでしょう。

 

そしてそこに言えることは、

嘘なんてなかったんだということ、

どこにも嘘なんてなかった、

 

あなたが感じるままに感じ、

それが当然であった時間があった、

 

それを遮ってしまう哀しい出来事や、

その出来事を起こした人々もまた、

一緒にいてくれた人たちだ、

 

そんなことです。

 

自分が追い詰められて、行き詰って、

疲れを取ったり、落ち着こうとしたりしても

その最も大切なことが蘇らなくなるのなら、

 

それこそを、

次の行動を選択する基準として

“復活”させてはいかがでしょうか。

 

ー今回の表紙画像ー

『お風呂のあひる』

とある理由から、100円ショップで購入する羽目になったアヒル君。

彼(彼女?)が目的ではなかったのですが、とりあえず写真のモデルになってもらいました。。。