これまでの取り組みが泡と消えたように感じる日について

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原家族に起こった哀しい出来事から

見失った自分を少しずつ取り戻しつつあった

頃の話です。

 

数か月もの間、

眠れない日々が続いたことがありました。

 

紆余曲折、試行錯誤を繰り返しながら、

それでも何とか自分が良くなっていることを

数年かけて感じていたので、

 

あれ、と思いました。

 

初夏が始まる麗らかな季節でしたが、

朝になるとぐっしょり寝汗をかくことが

たびたびありました。

 

何より、そもそも

眠りに落ちることができない。

 

そんな時間が梅雨を超え、

本格的な夏が始まろうとする頃まで

ずっと続きました。

 

秋から冬にかけてなら、

まだ季節のせいと言い訳もできたかも

しれません。

 

ですが、春も終わりのあたたかな季節に

なぜそんなふうになるのだろうと

悩みました。

 

当時を振り返ると、

 

体は疲れていて睡眠を欲しているのに、

意識と目が冴えて、

横になったまま悶々としている、

 

そんな感じでした。

 

起きている時間は、

 

どこにいても、

誰といても、

何をしていても、

 

駄目だ、うまくいかない、という

体の反応が蘇り、

 

それまで何とか折り合いをつけることで

なだめていたはずの感情をざわつかせ、

 

変化を求め、

変化を始められたと感じ、

実際に変わりつつあった心と体に、

 

雲散したはずの

疑惑と怖れの霧が広がっていく、

 

そんな時間が続いていました。

 

 

自分を無力感で満たしたり、

二次的な憤りや怒りの感情に囚われたり、

被害者という位置づけに閉じこもったり、

 

といった、

 

自分が陥っていた感情の罠に気づき、

そうではない世界が普通にあることに気づき、

自分が当たり前にそこに居ていいと気づき、

 

バラバラになった自我を

切り離していた自らの一部を、

大切な自分の一部として統合しようと

 

日々自分を振り返り、

自分の中から湧き上がる想いを汲み取り、

良いこと、幸せなことに目を向けるよう心掛け、

 

そういったことを繰り返すうちに、

気がつくと少しずつ、自分と周囲の変化が

良い方向へ向かっていると感じる最中に、

 

いつの間にか、生活のリズムが、日々の習慣が、

うまくいかなくなっているといった

経験はないでしょうか。

 

もしかすると、それは

変化が行き詰っているのではなく、

 

大きな変化の段階、ステージが変わるところに

きているのかもしれません。

 

心身が慣れ親しんだ世界の中で

あなたを支配していた価値観がもたらした

哀しい時間に見切りをつけると決めた人が、

 

一度は通る場所といってもいいと思います。

 

どういうことかと言うと、

 

旅立とうとするあなたの中で、

旧世界の価値観が新しいそれに書き換わる時の

体の反応である場合があるのです。

 

皮膚感覚が書き換わるプロセスで、

言いようのない不安に襲われていると

考えてみてください。

 

当然ながら、頭では理解していても

新しい世界に置かれたあなたの魂は

その世界を経験しておらず、実利も知りません。

 

何とか自分らしく生きようと、

自分を大切にして生きようと、

そして自分の世界に変化を起こそうと

 

日々を送りながら、

実際に変化が起きていることをも

知る術がない。

 

だから意識は知覚しなくとも、

体がものすごく不安を覚えて

生じる反応が人により様々に生じるのです。

 

そこで日々の活動をやめてしまえば、

また元の世界に戻ってしまいます。

 

しかし、あきらめることなく、

日々の振り返りを続けていくと、

 

少しずつ体と心と魂が、

新しい世界を自らの住居として

感じてくれるようになります。

 

 

数か月続いた睡眠障害の期間、

私はあまり薬を服用しませんでした。

 

軽い睡眠薬(マイスリー)を何日か飲んで、

たいした効き目がないことを悟ると、

あとは流れに任せることにしたのです。

 

この症状、つまり、

 

眠れないことも、

ぐっしょりと寝汗を書くことも、

ある種の悪夢を見続けることも、

 

私がこれまで目を背けてきたものが

私が変化していくために必要な

メッセージを送ってきている、

 

そう受け止めていたからです。

 

 

本格的に夏が始まり、

冷房が欠かせなくなったある晩のことでした。

 

どうせ眠れないと思いながら、

遅い時間に寝床に入ったところで、

ふわりと思い出が下りてきました。

 

そうであったはずの、

でも明確には記憶してはいない、

家族が皆でいた頃のシーンです。

 

特に誰かが笑っているわけでもなければ、

楽しそうに話しているわけでもないのですが、

 

それは、とても心が和む、

幸せの象徴のような光景でした。

 

そして同時に感じたこと、

 

それは、私はよくここまで生きてきたな、

ということ。

 

気が小さくて

せかせかとして怒りっぽくて

妙にプライドばかり高い父と、

 

ガサツ・粗野で、

啖呵ばかり切って、

いつも被害者を気取ってばかりの母は

 

今いる幸せと、

今まであった幸せと、

これからもあり続けられるかもしれない幸せの代わりに、

 

互いの欠点に飲み込まれて、

最後は哀しい結末になってしまったけれど、

 

それでも私という子供を

社会人になるまで何とか育ててくれました。

 

精神医学用語でいうところの

家族伝搬そのままに、

彼らの性格を受け継いだ私は、

 

気が小さくて、

せかせかしてて、

粗野で

ともすれば被害者の中に逃げ込もうとして、

すぐに拗ねて、

自分はできないと塞ぎ込んで、

何かと自分を後回しにして、

それでいて誰かが自分を良くしてくれると

心のどこかで思っているところがある…。

 

でも、

今はそうやって彼らから受け継いだ

お世辞にも褒められたものではない気質さえ、

 

しっかりと自覚し、受けいれてしまえば、

どことなく愛おしささえ感じる。

 

そして愛おしくなると、今度は、

それがもとでこれまで苦しんでいた

日常の出来事さえもが、

 

誰かに帰する問題ではなくて、

私の中で起こっていることであって、

 

私が私に寄り添って歩み続ける限り、

破綻することはないと、

感じることができる。

 

そう思わせてくれるだけの過去が、

父と母と私の間にはあったのだ、

という感覚に満たされた、

 

そんな新しい世界の中で、

今は生きています。

 

ー今回の表紙画像ー

『レモネード_バージョン2』

少し古いレモンが残っていたので、煮詰めて作ってみました。

黄色い皮を取り、白い部分も薄くして、

はちみつと黒糖で、10分ほど煮詰める。。。

これはこれで美味…。