私が若い頃に面倒をみていただいた先輩に
こんな方がいました。
いつも書いているように、
当時は原家族の混乱を背負って、
それを世界に映し出していたので、
周囲に対しても、
不信と不実の塊と接するような
生き方をしていました。
苦しくて、でもその理由がわからなくて、
見聞きする多くのことが
自分の至らなさを批判しているようで、
周囲の取り巻きと折り合いがつかず、
仕事の成果もまともに出せないまま、
あちこちを困らせていたと思います。
そんな状態の私に対して
仕事を教える立場にたっていた先輩は、
当時の私とは正反対の性格で、
やっている仕事も
聞こえてくる人の言葉も、
奥さんの文句さえも、
肯定的に受け止めていて、
当時苦しんでいた理由を
うまく説明できないまま
批判的な言葉が口をついて出る私に、
「そっかな~、
いい時代、いい環境に生きていてさ、
飯はうまいし、街は平和じゃんか」」
とのんびりした口調で語っていました。
今ならとてもよくわかるものの、
あの頃の私には理解不能な感覚でしたが、
少なくとも私が見ていた風景が
その方には違って見えることだけはわかりました。
★
反対に、こんな人もいました。
私が所属していたチームのリーダーで
定年間近の人で、
私が配属されて半年くらいの間に、
8人のメンバー一人ひとりに対する文句を
度々聞かされたことがありました。
なぜ私に、と思ったのですが、
とにかく二人の時になるとぼそぼそと
事情を知らない私に文句を伝えてきました。
また、その人は自分が仕事でミスをすると、
まるでそこに正当性があるかのようなメールを
長文で送ってくる人でした。
基本的な間違いを強く指摘されると、
まるで悪人から害を受けたかのように
引きこもる性癖を持っていました。
同じ土台で話が通じない人だとわかるまでに
それほど長い時間はかかりませんでしたが、
おかしいと感じていたのは
メンバーも同じだったようで、
皆が距離を置いていました。
後から知ったことですが、
昔その人の上司だった方もまた、
管理に苦労した末に匙を投げていたそうです。
僻み癖が強く、やたらとプライドが高く
明白に論旨が破綻した状態でも意見を曲げず
自分は常に周囲からいじめられていると感じている
というのがその人の特徴だとのことでした。
★
極端な二人の例を書きましたが、
良し悪しを論じたいのではありません。
ただ、片方は日常の幸せを現実の中に見つけ、
もう片方は不幸を見つけている。
ある種の事実を見出し、
それを現実とすり替えることで、
自分の状態をジャッジすることが行われます。
それが幸福の側になればよいのですが、
そうでない場合に、まるで、
それだけが事実であるかのように受け止めると、
その事実のみが現実となるような世界が
目の前に現れます。
何が言いたいかというと、
目の前の出来事は事実であるかもしれませんが、
現実ではない、ということです。
えっと思われるかもしれませんが、
現実とは何かを真剣に考えると、
はなはだ抽象的で心許ない感じがしませんか。
あらゆる事実を漏れることなく、
完璧に捉えることはできないし、
そこに至る流れ自体はわかりません。
よく言われるように、
現実の解釈は人によって異なります。
解釈には、その人にとっての
経験、思い込み、感情などが入り、
結果、特有の受け止め方が行われます。
だから少なくとも、
あなたが現実と呼ぶものは、
あなただけの解釈であり、
カールロジャース氏の有名な言葉、
「幻想とはその人にとっての現実であり、
現実とはその人にとっての幻想である」
に行きつきます。
先に述べたように、
それ自体は良し悪しの問題ではなく、
私たちの特性です。
要するに、解釈には
どうしても私たち一人ひとりが抱える、
内面が入ってくるんですね。
するとその人その人によって、注目する点も
必然的に影響を受けます。
あなたが苦しく辛い日々を生きていて、
あなた自身が抱える問題より強みに焦点を当てて、
良い人生を生きたいと願うなら、
そして、前述のように現実が幻想であり、
幻想が経験や感情や思い込みによって
構成されているなら、
最初にやるべきことは
小手先のテクニックを身に着けるよりも
あなた自身の再構築です。
あなたがあなたにとって安定すると
あなたがあなたにとって気持ちが良いと、
あなたがあなたにとって安心できると、
あなたの現実が変わります。
現実が変わるという表現は、そうやって
解釈するものではないでしょうか。
目の前に現れるものが変わるのではなく、
そこにあるあなたを含めた世界が
変化するんです。
「飯はうまいし、街は平和で素敵な」環境に
生きることも、
「自分は常に周囲からいじめられている」
と感じる環境に生きることも
あなた自身の幻想が生み出します。
それは全体的に捉えがたい事実から
導き出せるものではなく、
自分がどうしたいか、どう生きたいかを
明確にして、その線に沿って生きる
ことに他なりません。
偉そうに書きましたが、
私もまだ道半ばです。
焦らず、ゆっくり、確実に歩みましょう。
ー今回の表紙画像ー
『カルボナーラ』
最近のコメント