心が弱っている時こそ、つまみ食い行動を続けてみよう

日々の棚卸

 

子供の頃、

こんなことをよく言われた記憶があります。

 

「しっかりと最後までやりきりなさい」

 

「一つのことを終わらせないうちから

あちこちに手を出すんじゃありません」

 

「一度に二つのことをするんじゃない」

 

何かをやって飽きてしまうと、

やめてすぐ別のことに手を出す、

ということに対しての許容度は

今よりずっと低かった気がします。

 

その風向きが多少なりとも変わったのは

バブルが崩壊してそれまでのやり方が

うまくいかなくなった頃で、

 

特に今世紀に入ってからは

同時にいくつものことに手をだすことの

許容度が上がってきたと思います。

 

何せ、二刀流の時代ですからね。

 

ただ、そうは言っても、

実際には一つのことが

なかなか身につかない現実もあって、

 

無為な時間の使い方をしている、

と受け止められることが今もあります。

 

確かに、

 

あれやって、

これやって、

それやって、

他にもやって、

まだやることを探して、

 

そんな行動を続けて身につくものは乏しく、

せいぜいが器用貧乏になるくらい、

というのはよく考えずともわかります。

 

手を動かし、

脚を動かし、

身体を使って、

運動でもするならまだしも、

 

しっかり考えることもできてなければ、

心の動きを見定めていないようにも見える、

というのもあるのかもしれません。

 

そんな諸々の理由を述べるまでもなく、

 

人生をしっかりと生きて、

世の中に認められて、

日常を充実させるためには、

 

一つのことに集中して、

一つの道を生き抜いて、

一つのことをやり遂げる、

 

ということが大切だ、

 

と多くの人が今もまだ

疑うことがないどころか、

ほとんど信仰さえしています。

 

実際のところ、

一つのことに入れ込み、

充実して生きられるなら

それに越したことはないのかもしれません。

 

自分の頭でしっかりと考え、

自分の心と向き合ってその動きを理解し、

それに沿って生きることができるなら、

それはホントに幸せなことでしょう。

 

 

私たちはよく迷います。

 

日々の決め事に、

人との関係に、

そして人生そのものに。

 

少なくとも私自身は、

これまでにあちこちで書いた通り、

何度も迷いました。

 

家族の形が崩れて、

それと連動して生きていた

自分自身の生き方を見失ってしまった時や、

 

肉親がおかしくなってしまったり、

自死してしまったりした時、

文字通り、混乱しました。

 

自分が何をやっているのかわからず、

何のために

“それ”をしているのかもわからず、

 

休もうにも倒れ方もわからず、

社会と完全に切り離されることを怖れ、

生活のために働いてしました。

 

今ならもっと

負荷の少ない仕事に変わるという

選択肢くらいはあったとも思いますが、

 

当時の混乱の中ではそんなことさえ、

思いつきませんでした。

 

なぜかわからないけれども苦しくて

しかも何が苦しいのかもわからなくて、

この苦しさだけは何とかしないと

気が狂ってしまいそうだと感じて、

 

迷いがなかった頃、

飄々としていられた頃に戻ることを

時間を見つけては試みていました。

 

先にも述べたように、

自分と対話し、感情を汲み取り、

過去と接しなおしたりもしました。

 

でも、やはり、

同じ言葉を繰り返しますが、

 

何をしてよいかもわからず、

人とどう接すればよいかもわからず、

どう生きたらよいかもわからない、

 

という状況に

変わりはありませんでした。

 

心を大切にしようとして、

しっかり考えて生きようとしている

にもかかわらず、

 

これほどまで迷い、

自分の感覚が五里霧中だということに

戸惑っていました。

 

 

「現代人は「あーすれば、こーなる」

と思い込んでいる」というのは

養老孟子氏の言葉です。

 

日本の一般社会に

デジタル技術が浸透したのは、

20世紀の終わり、

1990年代だと思いますが、

 

それ以前から、

ゲームやパソコンを通して、

ボタンを押すと結果が出る、

という社会が根付いていました。

 

個人的には、

おそらく今のAIに相当する

位置づけだったと思います。

 

そんな世界に身も心も浸していると、

 

頭で考え、心で感じたことが、

必ずしも自分にとっての正解を

導き出してくれるとは限らなくなります。

 

よく言われるように、

正解は人の数だけあるはずなのに、

 

いつの間にか、

「あーすればこーなる」

「このボタンを押したらどうなる」

と一直線の解があるかのように考え、

 

テンプレートが当てはまるような回答で、

自分自身の身の丈と感覚に合った解が

得られるはずもありません。

 

 

標題のとおり、まずは、

 

脚を使って、

手を動かして、

体験することを

 

飽くことなく繰り返してみることを

あえて提案しています。

 

毎日きちんと睡眠をとって心身を休めたら、

(ここは大切なので端折らないでください)

 

どうあがいたところで

スムーズにルンルンと取り組めることが

ないのだから、

 

身体と相談しながら、1日1つ、

何か新しいことをやってみる、

というのもそういう意味です。

何せ、

 

抑鬱的で、自己批判に気づかないまま

心をハックされて、

仕事も付き合いもうまくいかなくて、

 

そんな状態では、

感情と思考の効果は限られてしまう、

ということは実感されるのではないかと

思うからです。

 

そんな時は、

外的な感覚刺激から『飽くことなく』

情報を取り込んでみることです。

 

つまみ食い行動ですね。

 

何が正しい、どんなことをするのが良い、

というのはその時の状況で異なるのです。

 

飽きて次、

気がのらないから次、

そこには居づらいから、はい、その次、

 

理由はいろいろあるでしょう。

 

それで良い時、それが必要な時が

確かにあるのです。

 

最初はなんだかな、と

疑心暗鬼で始めたものが化けることは

珍しいことではありません。

 

ただ、こういうのは、

飛び込みセールスと同じで

高い確率で出てくるとも限りません。

 

セールスとの違いは、

自分にしっくりこなかったからと

やめたからといって、

顧客から罵声浴びせられないこと。

 

何せ、評価するのも自分ですから。

 

怖れることなく探し求め、

自分が主人公になって、

楽しさと没頭をもたらすような

宝探しの旅を続けるのは、

 

立派な洞察的な生き方であることは

間違いありません。

 

休んでばかり、

動いてばかりではなく、

 

少しずつつまみ食いして

『体で知る』ことの意義は

決して小さくありません。

 

そのプロセスもまた、

あなたのオリジナルの人生の一部として、

大切な思い出として心身にしみ込み、

 

人生に彩を添え、

あなたらしさを醸成してくれるはずです。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『ローカル線の旅?』

故郷の川は雨でガスってました。

新幹線から見る景色も…。