誰もが芽を持つ心の病

日々の棚卸

 

心の病。

専門的な命名。

 

適応障害

双極性障害

統合失調症

境界性障害

 

鬱の遺伝子は人類の半数と聞いたことがあります。

実際の発症率は15人に一人で6.7%ほど。

 

不思議ですね。

時々、どんな条件のとき、発症するんだろうと、

考えるときがあります。

 

日本では、

精神疾患という名の心の病と

医療機関で判断されると、

日常生活の大きく変更を余儀なくされます。

 

一方、米国を例にみると、

基本的なコミュニケーションが取れない状態ならともかく、

通常は処方箋とともに、

働きながら回復をはかります。

 

これも不思議ですね。

回復のアプローチの差は

どこから来るんでしょう。

 

肉親が統合失調症を発症して、

入院の手続きのために駆け回っていた頃、

私の頭にはそんな疑問が駆け回っていました。

 

今になってわかるのは、

これは誰か特定の人が抱える疾患ではない、

ということ。

 

ある時、ある条件下・環境下で、現れる

メッセージだということ。

 

統合失調症では、

聞こえない音を聞き、

見えないものを見、

あり得ないはずの世界を現実としてとらえている。

 

統合失調症者と深くかかわった人は

よくわかると思いますが、

彼ら彼女らにとっては、

聞こえない音、見えない世界が

現実になっています。

 

そして、日常生活に影響をきたしている、

と判断されている。

 

問題は何だろう。

 

見えないはずのものが見えること?

聞こえないはずの音が聞こえること?

あり得ないはずの世界が現実と感じられること?

 

そうではなくて、

そこに感じる、

恐怖、苛立ち、違和感によって、

その人が社会を生きづらくなってしまうことではないでしょうか。

 

眼鏡がなかったころ、

資料の悪い人は生きづらかったと思います。

補聴器がなかったころ、

耳の聞こえない人はやっぱり大変だったと思います。

 

心の病を発症する背景には、

ある環境の中で継続して起こる

感情の奥底では受け入れられない事象と

その蓄積があるのだと思います。

 

大なり小なり大人の範疇にくくられる人々が

心の病として精神疾患に分類される時、

その中には環境的、解釈的な要因が

多々含まれていると思うのです。

 

苦しいばかりの仕事、

飛び交う罵声、

蔑まれ続ける日常、

無力感に包まれた日々、

見失った生きる意味。

 

その状態は、

効率化を叫ぶ企業の論理や、

良い学校、良い会社、貞淑な妻、といった世の中の価値観。

その中で、鬱にはならなかったけど

ワーカホリックになった、

引きこもった、

ずっと一人ぼっち、

暴飲暴食の果てに生活習慣病になった、

離婚した、

拝金主義になった、

世捨て人になった。。。

 

そう考えてくると、

そのストレスが臨界を超えた時、

精神疾患という形で表現されるか

あるいは他の“症状”として現れるのか

ただそれだけのことではないでしょうか。

 

もしその見方が正しいとするならば、

私たちが見直すべきは、

心の生活習慣病につながってしまうような生き様そのものであり、

世の中の評価軸とは別の、

自分に寄り添った生き方を少しずつでも

実現していくことだと思います。

 

すぐに実行するのは難しい方もいるかもしれません。

一番難しいのは、

自分に合った職や収入を獲得することより、

そういった生き方と結果としての生活そのものを

自分自身に対して許すことなのではないでしょうか。

 

そこが始まりだと思います。

 

一度きりの人生を、

自分の想いに従って生きるとき、

捧げるものが特定の企業に対する忠誠という人は、

今の時代、まずいないはず。

 

行動成長期のような余力はどこの企業にもなく、

その中でますますの効率化や知識を求めるばかりでは

仮初の保証や給与など、

慰めにしかなりません。

 

そうであるなら、

自分を受け入れ、自身が納得する生き方をして、

心の病の元となる健康な感覚を肯定できる生活を

実現していきたいですよね。

 

自分を管理するとは本来、

そういうことだと思うのです。

 

私たちは、誰もが心の病の芽を持っています。

その前提で人生を捉えなおすと、

見失っていた自分と出会いやすくなるかもしれません。

 

ー今回の表紙画像ー

『夏の終わりの空 故郷の町遠景』