ネットニュースでアレックスシアラーの新刊の宣伝を見たこともあって、当時暮らしていた町の図書館で彼の名がついた本を手に取ったのは10年以上前のことだ。邦題は『スノードーム』。読んでみると題名と物語が微妙につながらなかったので、裏表紙を見てみたら『THE SPEED OF THE DARK』とあった。イギリス人らしい、というと個人的な思い込みかもしれないけれど、「暗闇の速度」なんてネーミングは面白いなと思った。
ラストで彼は、有限の時間、私たちが生きる限られた時間こそがもっとも大切だと述べている。その時間を何に費やすか、それと愛する人々。それ以外はほとんど問題じゃない、と。そして、頭が指し示すものか、心で導かれるものか、2つのうちどちらを選択するのか、とも。この2つをシアラーは、何もかもがそろっているが愛する人がいない世界と、愛する人がいて泣いたり笑ったり抱き合ったり喧嘩したりできるけど二度とこっちの世界には戻ってこれない世界として表現している。
そして、例え恐怖や未知の不安を経験するとしても、心が導かれるところへ向かわなければならない、私たちはきっと光へ向かって旅をしている、と結んでいる。。。。。
訥々と叙述された最後は、私たちが生きる上で普遍的に大切な価値を、作者の希望を込めて表現しようとしている。確かに、心が赴くところへ向かえるといい。きっと奥底では皆が思っていることだと信じたい。私がそういう方向に目が言っているせいか、少々ありふれた結びの嫌いを感じるが、それはともかく格好いいなあ、と素直に感じたりもする。
私たちが光という時、そこには明るさとか輝きという意味とともに、希望、夢、幸せ、あるいは未来、そんなことを連想する。そこから派生して、大切なこと、仰ぐべきもの、果ては正義と、無条件に良いことの代名詞として使用されてもいる。これと対を成すかのように、闇の世界はその暗喩として使用されることが多い。
これを書いている今は雨降りの日中で、明かりをつけていない部屋は薄暗い。梅雨入りしたわりには湿度も気温も低く、暑がりの自分が長袖のシャツを着ていても心地よく過ごすことができる。ディスプレイを眺めつつ、国道の濡れた路面を自動車が通り過ぎる遠い音を耳にしながら、ゆっくりと週末を過ごしている。窓際には、先日水漏れが発覚してダメになった90センチサイズの水槽の代わりに購入した小さな水槽の中で、チビ鮒とチビヨシノボリがふわふわと動き回っている。
真冬の小春日和や8月の炎天下の真っ青に晴れ渡った空の下で、海や川で遊ぶ高揚感も気持ちいいが、こんな静かで落ち着いた雨天も嫌いではない。寝不足のウイークデーで疲労がたまっていたが、今朝はゆっくりできたので体調もいい。自分にとっての幸せとは案外こんなことではないのかな、などとも思えてくる。
↑昔50㎝くらいの野鯉を飼っていた名残。このサイズに小魚入れるとちょっとした水中箱庭ですね。
華々しいスポットライトが当たる場所、大金を稼いだ裕福な暮らし、いくつもの肩書きや名声のある位置、俗っぽく聞こえようが何だろうが、それらはとても大切な夢の一つだと思う。例え世間一般の価値観から導かれたものだとしても、“自分の根底が充実していてその上に築かれたもの”であるならば、単に自分の満足感を満たすのみならず、弱者や困っている人への力にもなりえる。
だが、そういった世界が光であるとは限らない。
彷徨っているとき、何も見えない時、そこにあるのは闇だ。決して黒でもミッドナイトブルーでもない。日の光も、透明な水も、月明かりも、吹き抜ける風も、全てが私たちを見えなくしてしまうときがある。私たちは、ただそこにあるものを、敵にも味方にもしてしまうための感情的な意味づけを無意識の底で行っている。自分を見失った状態にあるとき、追いかけてくる過去に蓋をして見ないようにしているとき、闇が敵になるように、見るべき何かを無視し、受け止めるべき何かを遠ざけ、壊れたままの自分を満たすために光の世界を追い求めた時、光は闇になる。そして、追い求める光と自分の闇をつなぐフェイクに捉われ、身動きが取れなくなるか、光の世界に到達したときにはあると思っていた大切なものを失っているかのどちらかの結果が待っている。どちらの場合も、どこかで感情の“暴発”が自分か他人に向かう可能性を考えると、本当は社会が知らぬ存ぜぬで済ませるわけにもいかないのだが。私の原家族の場合は、私を含めた家族皆が自分自身に向けて“暴発”したわけだが、そういうわけでテレビやネットなどのメディアで“暴発”した事件が報道されたりすると、馬鹿だなと単に見下すことができない。こういった人々を私は無下に悪者にすることができないのだ。肩の力を抜く術を知らず、融通がきかず、頑なにまじめに生きている人も多いからだ。過去の自分、そして今も一部が飼いならされ続ける自分とどこかでダブって感じるのだ。
そういった人々が光に向かうためには、一度闇に潜った方が良い。きっと、いくつもの不快と不安と哀しみと怒りと、そういった感じたくないものが多く住み着いていて、あるところはクモの巣だらけ、あるところはカビが生え、あるところは湿って腐っているかもしれない。シアラーの言う、恐怖や未知の不安との対面だ。それを一つ一つ丁寧にもとの美しさに戻してあげられるのは自分しかいない。
コツは、自分をしっかり受容すること、そして決して自己正当化と混同しないことだ。いまだ旅の途中であるとしても、私にできたことが同じ状況にある方々にできないとは、まったくもって思えない。自分をしっかり抱きしめることに頑張ってほしい。
こんな静かな雨の日になると、そわそわして妙に焦り落ち着かなかったり、逆にズドンと猛烈な抑うつに取りつかれたりして、とても苦しんだ時期があった。空が曇るとそれだけで胸が重くなり、かといって晴れ渡っていると妙に鬱陶しかったり、と要するに生きていること自体に辟易としていたのだ。
それが変わったのは、生まれてから今に至るあらゆる過去の自分を根気よく感じ続け、その一環して家族を含めたその時代時代で自分を見守ってくれた人々の善意を感じられるようになったこと、その連続した時間の中で成長できていることを実感し出してからだ。当然、一朝一夕である時ポンと変わったわけではない。右往左往し、時には落ち込み、それでも自分を信じることを心がけるような言動と心持を意識し続け、それでもあまりに苦しくて意識することすらできなくなり、でもいやいややっぱりそうじゃないんだ、と思い直してもう一度自分の内側を旅して、いろんな過去やいろんな可能性と出会い続け、そういった果てにじんわりと、しかし確実に積み重なってきた結果得られたものだ。私たちがともすれば見失いがちなかけがえのない自分とは、それほどまでに重厚な集合体でもありえるのだ。
そんな自分が描き出す光は、おそらく優先順位のもとに幾重にも連なる層のようになると思う。最初に最も大切な何かがあって、次に大切な何かがあって、それからあれもそうしておかないと悔いが残るし、そうすると自分だけじゃなくて大切な人々のこともたすけてあげられるかもしれないし・・・。
あえて具体的な表現は避けたが、多くの人にとってはそれほど差異のない順位になるような気がする。少なくとも、世の中における自分の位置付けとかはいくつかの優先順位をしっかりつけ、実現してきた後でようやく光になりえるのではないだろうか。
心の赴くところは、自らの抱える闇としっかり向き合った先に光として描かれる。そう考えてくると、本当は光と闇とは一つなのかだと思えてくる。
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