自分はどこまでいっても自分

日々の棚卸

日本の海外渡航者は国民全体の7割ほどだそうです。とあるWebの調査結果なので正確かどうかはわからないけれど、言われてみればそのくらいはいっているのかな。

渡航形態はパックツアーだったり個人渡航だったり、行先は大国だったり小国だったり自然が豊かな国だったり街並みが美しい国だったり、暑い国だったり寒い国だったり。目的も趣味やレジャーからビジネスまで。あるいは伴侶が外国の方の場合は、里帰りなどというものもあるでしょう。

皆さんは旅行をされますか。

されるとすればどんな目的ででかけるでしょうか。

新しい出会いや気づきは多い方でしょうか。

現地で個人的な意見や判断を求められたことがどのくらいあるでしょうか。個人的なことや内面に深く立ち入って答える必要に迫られたことはあるでしょうか。

 

海外渡航に限った話ではありませんが、特に新しい場所で新しい関係の中に入っていったときに問われることがあります。それは『自分は何者か(Who Am I?)』ということ。あからさまに他者から問いかけられることは多くないかもしれません。ただ、自分の挨拶や歩き方、ちょっとした会話から着ている服装まで、無意識を含めて自身がしている表現を周囲はその人らしさとして受け止めます。コミュニケーションにおけるノンバーバルな領域が意味する部分(態度や表情など言葉以外の部分)ですね。どこかで書いた気もしますが、コミュニケーションで相手が受け取る印象はノンバーバルな部分が80%を占めると言われています。言葉以外の立ち居振る舞いまで含めて付随するいろいろな自分こそが、自分自身ということでしょう。

きっと私を含めた誰もが、そういった立ち居振る舞いに対して時には頭を抱えたくなるような過去を持っていると思います。「いやいや、私にそんな過去はございません」というならそれにこしたことはないですけどね。個人的なことでいえば、日常のちょっとしたやり取りの中でつい見栄を張ってしまったりした時とか、勝手に言い訳に走ってしまったりした時とか、大いなる勘違いの果てに行き着いたボケだとか、今こう書きながら思わずキーボードを打つ手が止まってしまうような格好悪いシーンをいろいろと思い出してしまいます。

みっともねぇ~、といささか眉をしかめるような感じですね。

もう、何というか、私は人一倍流行というものに疎い上に、はやりすたりで出回る言葉や何やらには全くと言っていいほど興味も湧かないくせに、自分が身に着けたことについては妙に普遍的な自信を持ってしまっているものだから、どこかで自分の記憶を手繰って似たような言葉を取り出してきては大歩危する、というようなことを時々しでかしていました。笑いが取れればいいのですが、座が静まったり、時には顰蹙を買ったりもして、凹んだことは数知れません。

 

自分は自分のままでよい。

よくそう言われます。

実際その通りだと思います。

相談を受けると折に触れてそう伝えるし、私自身もそう心がけています。

もう一度言いますが、自分は自分のままでよい。そう思います。

・・・で、どこまでよいのでしょう。

 

言葉は境界をもたらします。“何か”を言葉で表現した瞬間に、その“何か”について具体的な境界ができます。例え抽象的な表現であったとしてもその人なりに考え、あるいは感じる認識の境のようなものが意識されます。境界は、その人の受け止め方によって、外側を包むようにひかれる場合もあれば、内側の仕切りを想定する場合もあります。

子供の頃から不思議に思っていたのが、宇宙という存在。宇宙の外側ってどうなっているのだろう。宇宙は0次元の点からスタートしたというけど、ビッグバンの前はどうなっていたのだろう。

ググってみたら、いくつかそれらしき題名の本が検索出来ましたが、解説を読むとどうも答えっぽいものが書いてあるようには読めなかった・・・。ほんとは答えは出ていて、私が知らないだけなのかもしれないですが。

宇宙の話はスケールが大きすぎるし、日常にストレートに絡んでくることではありません。一方、自分は自分のままでいい、という言葉は、彷徨っていた頃の自分にとっては生きる一つの指針になりえる言葉だっただけに、その意味に随分悩んだものです。最初聞いた(何かの本で読んだ)時には、何を言っているのかよくわからなかった。自分が自分のままだからこそこんなに苦しんでるし、嫌なことばかり続くのだ、と思い込んでいたからです。

これがまさに「線引き」の問題だと気づいたのはしばらくしてからのことでした。あるいは協会の捉え方、と言ってもいい。自分を苦しめ蔑む自分と和解し、仲良くなってから、その意味が少しずつ胸の中に浸透してきました。

これは、ある意味大なり小なり誰もが実践していることだと思います。そして、実践し切れていないがゆえにいろいろな問題が生じたりしていることでもあります。

 

自分の中に沸き上がってくる感情と、それに誘発されて外に向かって表現する言動を分けましょう。

自分は自分のままでよい、はその内側に関する部分。湧き上がってくる感情は全て自分のもので、それを責める必要はありません。確かに、表現してしまうととんでもないことになる感情はあるでしょう。しかし、それでもその感情が内側にあるうちに肯定するのです。そして、実はそうやって自分を受け入れていくうちに、湧き上がってくる感情自体も徐々に変化していきます。特定の誰かに対して感じていた怒りや何かが、自分はどうしたらよいか、に変わっていく、という意味です。もっとも、この変化は今の感情を受け入れたらすぐに起こるというものではありません。繰り返しくりかえし、自分の感情に寄り添い続けた先に生じるゆっくりとした方向転換とでもいえばよいでしょうか。

考えてみれば当然だと思います。

長い年月をかけて今の反応を身に着けてきたのだから、今度は脱学習と新しい選択をするための期間が必要なのです。

面倒と思ったり、無理と感じる方もおられるかもしれません。でも、その先に待っているのは、とても豊かな未来の予感です。変化に向けて歩きださない手はないのです。そのくらい、自分を肯定する“すべ”を身に着けることは、これまでどうあがいても訪れなかったかけがえのない自分を生きる変化をもたらすことなのです。

焦る必要はありません。

私もまた、ともすれば見せたくない内側の感情を“ぽろり”ともらしては、『顰蹙』をかったりしているのですから。

ゆっくりとやっていきましょう。