愛着とコロッケ

日々の棚卸

数年前に暮らしていた町のスーパーのお惣菜屋には、コロッケが4個140円で売っていました。はじめてそのパック売りの商品を見た時には目を丸くしました。

「え? 今時この値段? それって自分が子供の頃の値段とおんなじじゃん・・・」

しかも、その店のコロッケは昔懐かしの、香ばしさというかコクというかなんというか、よく言われるお肉屋さんのコロッケの味でとてもとてもおいしかった。これと白飯があれば(個人的には)立派な昼食にだってなってしまう。。。

このスーパー、4階建てのビルの1階にあって長く続いているみたいだけど、あの値段でペイ取れるのかな。

 

コロッケは、普段から私たちの食卓にのぼっている食材の一つで、皆が好きな食べ物だと勝手に思い込んでいます。そのルーツは母親の手作りだったり、行きつけの近所の総菜屋だったり、もうつぶれてしまったあの頃の思い出の店だったり、それぞれの人がそれぞれの好みの味と思い出を持っているのではないでしょうか。

 

なんだかノスタルジックな話になってきたけれど、ここで述べたいことはそういったこととは少々異なります。

『原風景を蘇らせよう』『ワクワク?みんなで楽しく?のり?まずその前に。。。』など、自分の内側とつながって、そこから自分の進む方向や世界を求めることを提案してきました。HPの表題にも掲げましたが、まず自分自身と出会うことだと。

 

このとき、人によってはとても大きな心のブロックがかかり、自分自身とつながることを無意識的に拒否することがあります。なぜそうなるかは、反対から考えるとわかりやすいと思います。

私たちは例外なく、自分以外の何者でもない存在として生まれて、自分自身として生きだします。多少のストレスやすれ違いはあるにしても、そういったことを乗り越えて、そこそこ自分なりに納得した人生を送ることを“平凡”と呼んだりします。

しかし、その時の自分のキャパシティを超える、そのままの自分ではいられない哀しい、悔しい、時には恐ろしい出来事が繰り返され、味方となる何ものも感じられない状態が続くと、自分自身であることをやめてしまう選択をしてしまうことだってあるかもしれない。その感覚がずっと生き続けているために、自分とつながることを無意識的に拒んでしまうということです。

 

そんなとき、もう一度自分自身と一体化させてくれる原風景を蘇らせるために、私たちは心の中で“出会い”“再会”を必要とします。

“出会い”“再会”の対象は、最終的には当時の自分自身にたどり着くわけで、それをインナーチャイルドなどと呼ぶこともあるのですが、多くの場合、その手前に、昔の親兄弟や友人など、過去に同じ時間を共有した人々がいます。彼らは、同時にいわゆる愛着に傷をつけ、その後の人生を生きにくくされた(と思い込んだ)対象であったりもします。

 

私たちは、子供時代を家族の中で愛着に包まれながら育ち、社会に出て行くまでに愛着を内在化し、同時に脱愛着プロセスを経て精神的に親元を離れていきます。愛着は、もともと哺乳動物の親子の間で見られる行為-互いに触れ合う、食べ物を与える、安全な場所を作るなど‐に加え、いわゆる世話を焼いたり面倒を見たりするという行為があります。朝「おはよう」と声をかけるのも、哀しそうにしていたら「どうしたの」と尋ねるのも、黙って見守るのも、人間だけに見られる愛着故の表現です。実際には大なり小なり親子の葛藤がありますし、完ぺきにこなせる人などもちろんいないわけですが、いずれにしてもそういった歳月とともに積み重ねられた限りない数の風景が胸の奥や皮膚感覚に宿って、世の中を生きていこうとする私たちの内面(の肯定感)を作り上げているわけです。

私が述べた表現とは異なりますが、精神科医の岡田尊司先生も多くの著作の中で、心に問題を抱える多くのクライアントと対峙する中で、医療モデルの限界と愛着アプローチの効用を説いておられます。愛着は、それ自体決して難しい話はなく、誰もが知っている感覚がベースにあり、専門的ではないゆえか、妙に軽んじられている気がします。

マズローの欲求説によれば、人の欲求は生理的⇒安全⇒社会的⇒承認⇒自己実現の順となっていますが、これは私たちが社会的な欲求を満たす活動、つまり生き生きと社会の中で生きるためには、生理的欲求と安全・安心の欲求が満たされていることが必要、ということになります。安全・安心の欲求はどちらも、愛着と色濃く関係することはご存知の通りで、言い換えれば安全・安心の欲求が満たされないということは、愛着の問題でもあると考えられます。

私たちは、社会に出ると、常に批評にさらされるようになります。

批評は、決して自分本来の価値に対するものではないのですが、一日の多くを費やし、しかもその結果が当座の生活に跳ね返ってくるとなると、そして、自分の周囲や親兄弟、友人知人もまた同じフレームの中で生きている現実を見ると、あたかもその批評が自分自身の価値であるかの如く感じられてしまうようになります。これは決して会社で仕事をしている人ばかりではありません。多くの場合、家事をこなす主婦の皆さんもまた子育てや家事に対して夫や隣近所からの批評に内心でびくついていたりします。

これらは、生まれ育つ中で大なり小なり育まれてきたはずの愛着感が喪失する過程でもあるわけです。これが、自分の中に孤立の感情を招きいれるときさえあります。

 

私が言うのもおこがましいですが、今は心理アプローチや行動療法など数多くの提言をする著書なりウェブサイトがあって、ともすれば愛着を失い、自分を見失いがちな私たちに向けてよい提案をしてくれています。

ただ、「自分の望む幸せ」「本当の自分」といった表現とともに描かれる抽象性が果たして伝わっているだろうか、と当サイトも含めて疑問に思う時があるのも事実です。

覚えておいてほしいのですが、何も気にせず生きることができていた頃には「自分の望む幸せ」「本当の自分」を追い求めてはいなかったということです。気の赴くまま、心の赴くまま、嫌なことは記憶の片隅に追いやって、その時々のささやかな楽しみを見出していたのではないでしょうか。

もっとも、見守ってくれる大人がいない、というより既に大人になった自分が自分を見守る必要がある中で、こういった行動を実行するのは容易ではありませんよね。少なくとも、何も気にせず生きるなどということは、なかなかできるものではありません。

そうやって批評の中に身を置きながら、心の奥で自分を支えてくれているはずの愛着の数々が、どんどん遠い感覚に埋もれてしまおうとしている状態は、どこかあたたかい湯につかっていて気が付いたらゆでガエルになっていた、という笑えない話とダブりませんか。

 

私たちは、自分を見失っている時、つまり自分自身とつながっていない時に不安やショックに襲われると、どうしてよいかわからなくなります。解決の手段が思いつかないというのではなく、どうにかなるよ、という先の見えない状況で自分を信頼する感覚が自然に湧いてくることがなくなってしまうのです。傍目には大きな問題もなく冷静に生きているように見える人が、家庭の内部崩壊を招いたり、自暴自棄になったり、自殺を試みたり、人を傷つけたりしてしまうとき、その人自身に起こっていることです。

 

原風景について最初に以下のページで、私の過去を例に述べました。

https://nakatanihidetaka.com/yourlandscape/

原風景は、愛着の感覚を守るものです。

そして、愛着に触れることができる確実な場所です。

それはあなたの中にだけある、あなただけにしかわからない、あなただけのものです。

長々と愛着についてお話しさせていただきましたが、それが伝えたかったことです。ここがしっかりと自分の中に感じられている人は、生きることが楽になります。世の中の見え方、自分自身の接し方がそれまでと全く変わってきますから。

「あ、追い詰められているな」「感情が麻痺しているな」と感じる期間が長く続くのであれば、少し休んで、内面の旅をする時間を取ることをお勧めします。それほどに、愛着は大切な感覚で、しかし大人になると否定否認しがちにもなるものです。今一度、自分がささえられている過去を棚卸することの大切さをご理解ください。

 

確か、小学校が午前中で終わって帰ってきた日のことです。

父親は仕事で、母と妹と3人でお昼を食べました。おこげのついたご飯を茶碗によそって、母が近所のスーパーで買ってきたコロッケを1つ上にのせただけのシンプルな食事でしたが、当時から私の大好物でした。近所のスーパーは、パン屋に乾物、お花屋に総菜屋など、5つ6つばかりの店が入った小さな商店で、ウイークデーはそこが我が家のマーケットでした。私自身も母の代わりに良く買い物に行かされ、特にコロッケをうっている総菜屋は同級生の親がやっている店だったので、何かとおまけ(コロッケ一個とかガムとか)をくれて、母もそれをひそかに期待していた節がありました。

 

家族がバラバラになったときには、「あの頃はよかった。でももう終わりだ」とすっかり落ち込んでいました。

その後、ショックの中で、それでも働かなくてはと傷を隠していた頃は、「知らねえよ、そんな昔のこと」と弱さの象徴を遠ざけようとするようにぞんざいにしていました。

その風景が、その感覚が、そうやって追いつけられた自分の内面をどれだけ支えてくれているかも理解せずに。

 

先に述べたブログページの最後にも記載しましたが、もう一度述べます。

あなたの原風景を取り戻そう。

そして一文追加します。

あなたの愛着を蘇らせよう。

 

原風景については、これからも何度でも書いていきます。