親のせいかもしれないけれど、親のせいじゃない

日々の棚卸

どっちつかずの標題で申し訳ありません。

普段から拙ブログで、かけがえのない存在としての自分をいかに感じ取り、どう生きていくか、ということについて述べていると、どこかで家族の葛藤の問題と交差します。中でもやはり親子の葛藤は多い。葛藤のない家族などないでしょうからもう一歩踏み込んで言えば、その葛藤が原因となって罪悪感に苛まれたり、当人が生きにくくなってしまったりして、時には人生をあきらめてしまうことさえある、といった状況は、それが事実に基づくにしろ、当人の思い込みにしろ、葛藤という言葉でくくるにはいささか重すぎる。そんな時間を潜り抜けてきた私に何かサポートすることができればと、少ない脳みそを絞って日々考えています。

 

家族の構成員それぞれがバラバラの状態で、成人したはずの青年たちは社会になじめず、孤立し、ひきこもり、時には命を絶ってしまったりする。そういった事例が日常的に聞かれるようになった1980年代ごろから、家族の問題に焦点が当たるようになりました。少しして流行りだしたAC(Adult Children)論と家族病理という概念もまたある意味適格に症状を捉えていると思うのですが、一部でおかしな方向に理解が進んでいて、まるで攻撃のための武器を得たかの如く、これ幸いと、「親が悪い、以上終わり」というところで思考が止まってしまっている人々がいるのも事実です。

おいおい、そんなことで大丈夫かい?とそんな話を聞くたび思ったものです。当人たちはそれで納得しているようで、それはそれで生きづらくないのだろうかと訝しく感じるのですが、いいのかな、彼らは。

もっとも、昔通ったメンタルクリニックでは、ここで文字にすることが憚られるような親の報告もあって、実際、今思い出しても、吐きそうになる、という表現がぴったりくる凄惨で泥臭い話も随分耳にしました。シェアという形で自ら聴講者の前で話をされた方の一人と話す機会があったのですが、親との関係が落ち着いたこと、すでに結婚して伴侶との間も良好だったこともあってか、いたって飄々とした感じで接してくれたのですが、そこにたどり着くまでにいくつもの大きな葛藤を乗り越えてこられました。以前紹介した知り合いの女性の生い立ちもそうですが、物理的な児童虐待はいかなる理由があっても許されるものではありません。

ここではそういった内容にまで踏み込まない話に限定させていただきます。

 

親に腹を立てること、恨むことを心理の領域で扱うと、どうしても、私とあなた、及びその取り巻きということに視点がいきがちになります。誰のどの部分が正しくて、どの部分が間違っていて、底流にはどんな価値観があって、といったことです。

ですが、親と子の葛藤は、別に今始まったわけではありませんよね。

親の世代はおろか、祖父母の世代、もっともっと遡ってもあったはずですし、今抱えている家族の葛藤が個人やある家族に特有の問題ばかりが原因とはいえない部分が間違いなくあると考えられると思います。

そのような見方で、自分の親や子との間に葛藤やすれ違いを抱えている一人一人が、自分をこの世の中にどう位置付けたらいいのかについて自分なりの解釈が得られれば、また新しい取り組み方や自己肯定感に寄与できるのではないかと思うのです。

 

ちょうど日本経済が世界の中で主要な位置を占めるようになった1970年を過ぎたあたりから、家庭内暴力 - 子が親にふるう暴力、親が虐待する暴力 - が世の中にとりあげられるようになりました。実際には、それよりずっと前、つまり戦前だって少なくとも一部の親が子に“躾”と称してふるう暴力は半端ではないものがあったでしょうし、親不孝という言葉は大正期には普通にあったと聞きます。つまり、今とは形が異なるにせよ、一部の家族ではやはり、ままならない葛藤を持っていたわけです。

今との違いは、子が親にふるう暴力で、それだけは報告がなかった(私が調べ切れていないだけかもしれませんが)ことで、このことはここ半世紀ばかりの間に何が起こっているかを知るヒントになると思います。子供が喜んで親に暴力をふるうなど、いついかなる時代のどの文化であっても、まずありえませんから。

いずれにせよ、親の接し方が時代を経るに従い、表面上は厳格な態度からフレンドリーになったとしても、世の中で生きていくための親子の接し方という視点で大きく変化してはいない、と私は考えています。

「えっ」と思う方もおられるかもしれません。

メディアや資料から伝わってくる100年前の父親像と今のパパさんたちと何が同じだ、と。同じように戦前の母親像と今のママさんたちが同じだなんて、と。

確かにそういった方々の言わんとされることはわかります。

自分の父と祖母の関係を見ても、自分と母のそれとの差は歴然としていると感じますしね。

ただ、世の中のあり方・変化を親が推察できる範囲は当時も今も同じようにとても限定的であること、その中である程度の“正しい”線引き・答えを子供に示す必要性を感じていること、その一部には強制性がはたらくこと、ととらえると、いかがでしょう。100年前も今も本質的に変わっていないように思えませんか。

一方で、世間一般の人々が得た自由度(職業、生活スタイル、結婚離婚、個性の重視など)が大きく変わったという状況があって、ここで取り上げる葛藤の質が変化していると言えると思います。つまり、親の強制性に従う根拠が薄れているどころか、それに従うことで悪くなりかねない可能性もある、しかも親には従うものと子供は思っている、といったことです。

日本(あるいは先進国)の歴史上、(正しく措置を講じれば)おそらく初めて飢える必要がない時代が続くようになった、という現実は、子供が生き残っていけるように、必死に様々な知恵や世の中の仕組みを強制的に叩き込むという類の接し方の意味が問い直されるほどに、価値観と関係性を変えてしまったのです。

 

これは家族構成の前提自体を変えてしまいかねないことを意味しています。

戦前は決して多数派ではなかった個人主義が台頭してくると、生きていくために構成されていた共同体を維持していくために必要な従来の教育 - 例えば、男らしさや女らしさ、自分の人生を生きていく意味、地域や家族との接し方など - が形骸化していき、それが急速であるほど親子間の断絶も大きくなります。世代間の断絶についてはかなり前から話題に上っていましたが、それが一般的に家族の存立自体を危うくさせるところまできているのかとさえ想像することが私自身あります。

 

私は、だから親御さんに対して「子供の躾方を変えろ」とか、子供の立場にある方々に向かって「親の苦労を理解・共感しろ」などと申し上げるつもりは毛頭ありません。カウンセラーという立場はそもそもそんなことのためにあるものではないし、そんな通り一遍のコメントで当人の生きづらさが解消されるなら、今時の社会に多くの行き詰った青年壮年たち(中には70歳過ぎの方もいらっしゃいます)があふれるはずもない。

 

片方に、“そう”しないと生きていけない時代、今を生きる私たちからすれば理不尽なことを異に反して強要されたと見える時代があって、しかもそこには“そう”する意味があった。“そう”することで、日々の糧を得、それに必要な共同体に一員であることも保つことができた。もう片方には、自由を持て余して、自由にチャレンジすることに怯えて、何かを言い訳にして生きている私たちがいる……。該当しない方、こんな言い方してごめんなさい。私は自分がそうだからなのか、大なり小なり皆が当てはまると考えてしまっている口なのです。

 

結局そんな中で私たちができることは何でしょう。

いつも、自分を丸ごと受け入れろ、とか、自分の味方でいろ、自分に寄り添うんだ、と申し上げていて、それは今だって繰り返しお伝えしたいことではあるのですが、ここでは少し視点を変えて、世の中の位置づけから見て、自分の感じ方をどう解釈したらよいか考えてみましょう。

理不尽、理解不能、お固くて鬱陶しくて勝手に自分の領域の内側まで侵入してくる肉親がいて、頭ごなしの価値観と子供の頃からの影響とで、子供の方は成人した今も自分自身が何者で何を欲しているのかよくわからなくなってしまっている。

だから、もう知らん、勝手に生きてく、お前らは嫌いだ、と単純に納得できるのなら、最初の方で書いた人々のように生きていくのでしょうが、普通はなかなかそこまで吹っ切れるものでも捨てられるものでもない。ことに親と子の間はそういうものだと思います。

おかしいから、変だから、自分をおかしくさせてしまったから、はいさよなら、とできないところに肉親のつながりの難しさがあります。ちなみに肉親とは、血のつながりのことだけではありませんからね。養父母と養子の関係だって同じです。

 

繰り返しますが、どうしたらよいでしょう。

政治家に対していつも文句ばかり言っている人はいるものです。

同じように、働く会社の上層部に対して「あいつらは…」と愚痴っている人も同じ。

どれほど世の中が民主化しても、平等になっても、平和であっても、あなたが変わらなければ、あなたの人生は変わりません。

 

もう一度繰り返しますが、どうしたらいいのでしょう。

どう変化したら?

 

変化、進化は、別の何かになることではないと思うのです。

それではダメだ、と変化を求めているうちは、本質的な変化にならない。

それ“だけ”ではダメだ、と根っこにつながる変化こそが、新しい自分を生み出します。だからこそ、見捨てていい自分などないのと同じように、知らぬ存ぜぬで済ませられる家族の物語もない。ルーツをただ憎んでいるうちは、欲している新しい価値にも受け入れてもらえない。

本能的にはこれを理解している方も多い。だからこそ、その狭間で引き裂かれそうになって苦しんでいる。

 

「そうはいってもあの親の場合は・・・」

まあまあ、落ち着いて。

全てを与えてくれる親なんていないし、親こそ古い価値の中で育った以上、我々よりさらに今の価値観を知らない。

ならば、不足するものが例えお金やモノじゃなかったとしても、肝心の愛着や自分の受け入れ方の方法だったとしても、やはり親への腹立ちは一時的なものにして、自分で変えられるところを変え続けるしかないでしょう。

それこそが、自分の人生を背負うということだと思うのです。

 

ほんと、どの口が言ってんだか、と書きながら思います。

でも、専門家の端くれにして身をもって体感し、大切な家族を失って身に染みた私だからこそ、言う必要があることだとも感じているのです。

 

これ以上、意に反して停滞する時間に埋もれないように、自分は変わることができるのだと受け止めてください。

理由?

簡単です。

おぎゃあと生まれて、ここまで生きてきたじゃないですか。

いつだって試行錯誤していたでしょ。

そして何とかやってきた。

何も悪いことだってしていない。

それはあなたがとても素敵だからです。

素敵という言葉は、何だかキラキラしたイメージをまとって受け止める方がいますが、ここではもっと本質的な意味で立派とか大切ということです。

慣れない言葉に戸惑いを通り越して、うろたえるか、胡散臭く感じるかもしれませんが、それはあなたがまだ自分を信じていないだけです。

 

社会学的には、戦争に負けた後、親の権威が失墜したことも今回の件に深く絡んでくると思います。

その影響もあるのでしょう。

親が自らの不幸を子供に見せつける弊害という、心理カウンセリングや精神医療の領域ではよく語られること以外に、子供が成人した後にもさらに不幸を演じ、時には本当に崩れて行ってしまう親を見ることで、子供の立場にある人々はこれまでの自分の歩みの行き着く先をどうしてもそこに重ね合わせてしまう。そんな状態のままでは出せる力も引っ込んでしまいます。

そんなとき、親という他者を変えようとするのは難しい。

いっとき、親に腹を立てるのはいい、といいました。その間に、他の感情を圧倒する怒りと哀しみを解き放ち、空いた隙間に自分が自分にできることを模索するのです。そうすると、いつも言っているように、自分を変えること、もっと大切に扱うようにすること、素の自分を素敵だと感じられる心持を染み込ませること、といった、自分自身へのアプローチの大切さの話につながります。

 

心理の領域の話は、本来その中だけで閉じられるものではありません。なぜなら、私たちは社会とつながって生きているし、そこには政治、経済、歴史、技術、情報、宗教など、人が長い年月をかけてくみ上げてきた様々な領域があって、そこで起こる出来事が不可抗力的に降りかかってくる影響を切り離して、自分に注力しようとするとどうしても不信感というか不透明感を感じてしまう。しばらくすると、コロナウイルスの影響による経済的な打撃が日常生活に影響を及ぼすでしょう。リーマンショックの比ではないとも聞きますが、安倍政権が総額108兆円の対策を講じると言っています。事の成否はわかりません。ただ、こんな形で心理の外側の話が色濃く影響し、それをきちんと認識した上で、それでも自分が自分にできることはあるし、その中で精一杯生きようと思えることで、自己を受け入れ、自己肯定感を増すことができるのです。

私たちが日々できることに変わりはありませんが、それが世の中とどのようにつながって、その上で何をしようとしているのか、を理解することは、多少なりとも自分が置かれた状況を冷静に考える上で有用なのではないでしょうか。

 

そうは言っても、最後はきちんと自分を大切にしてくださいね。

んん、最後はやはり行き着くところに行き着いてしまったかなあ。

 

ー今回の表紙画像ー

『早春の富士山遠景』