組織集団、特に大所帯の中で働くということに苦労を覚える方は少なくないようです。私もまたそんな性癖の持ち主というのもあって、そう聞かされた方々には妙に共感してしまいます。その裏返しというべきか、いわゆる独立起業に憧れる人もまた思いのほか多いように思います。ことに、30年前のバブル崩壊に始まり、就職氷河期、リーマンショック、コロナ惨禍など、折に触れて発生する働き方の変化が企業ベースで行われることに嫌気がさした輩などに特に目立つようです。
独り立つことが悪いわけではもちろありません。才能や機転、専門性など、実際に立つためには時間をかけて作り上げる準備が必要ですが、出来るかどうかは別として、そういう方向へ行きたいという欲求は当人のもの。
しかし、これはそれまで企業組織が役割として肩代わりしてくれていた、お金の処理や手続き、お客様対応、事務手続きなどを一手に自分で引き受けるということでもあります。
……と、まるで、企業に所属しないのは大変だよ、と言っているような文章の後で何ですが、既存の集団組織によるビジネスというものが多くの場で行き詰っているのもまた一つの事実だと思います。専門家でもない私が言うのもなんですが。
私は、企業の研究所に勤めていた時期があって、そこには私のようなへっぽこなどとは比べもにならない優秀な研究者が集まっていました。概して出世はしていないけれど、電子技術、情報工学、基礎材料、ネットワークコミュニケーションなど、いくつもの分野にまたがり、モノの見方、洞察、予測など、彼らのそばにいるだけで多くのことを学ぶことができたものです。
一例を挙げると、情報発信の世の中における位置づけについて。
20世紀末の古い話ではありますが、活版印刷→複写機→インターネットという知の展開は、大きな技術革新によって変遷しているという見方をよく聞かされました。もっとも、1980年代の米国などで既に話されていたと言いますが。
どういうことか。
かつて、知としての聖書は聖職者のみが有する権限でもありました。カトリックですね。資本主義勃興直前のカトリック教会は既にキリスト教の体をなしていなかったというか、免罪符を売ったり、私生児を作ったりと本来の教えとは全くかけ離れた状況にあったことは有名ですが、それはそれとして、グーテンベルクによる(現在と同等の構成である)活版印刷の発明が15世紀におきると、印刷された聖書がヨーロッパ中に広まり、ルターの宗教改革の土台にもなりました。印刷技術はやがて聖書に留まらず、20世紀にはいるまで莫大な情報の印刷を行う極めて有力な技術であったわけですね。
20世紀、第二次大戦直前、カールソンがゼログラフィー技術(電子印刷技術)を実現します。いわゆる複写機(コピー機という名は登録商標)のことで、ノートや過去問のコピーでお世話になった方は数えきれないと思います。印刷技術が大きく変化を遂げた瞬間でした。
そして、20世紀末のインターネットの出現。これは説明するまでもないと思います。
ここまでの流れをざっとまとめると、知へのアプローチが大衆化し、かつて一部聖職者だけのものであった知が、
万人を読者にし(活版印刷技術)、
次に
万人を出版社にし(電子印刷技術)、
今は
万人を発信者たらしめる(インターネット)
システムまで整備されたことになります。
他の例ではモノづくり。
ちょっとしたカメラや簡易パソコンにデコレート用イルミネーション(クリスマスなどに家の周囲に色とりどりのLED光を光らせている家がありますが、あんなイメージです)。どれもちょっと電気街を回ったり、ネットで検索して部品を購入すればできてしまう。後は場合によってですがちょっとしたプログラミングの知識。
昔なら、先進国の大企業が大きく投資して作り上げたICチップや発光素子などの電子部品も、今は誇張でなく駄菓子屋でお菓子を購入するように安く簡単に手に入ります。理由は、技術がこなれてきたこと、最先端のものでない限り先進国で製造してもペイが取れないこと、需要自体は世界的に存在することなどから、途上国で安価かつ大量に製造され、その一端が日本にも入ってきているからです。あるいは、それらを統合した複合的な商品を作るメーカーなども表れて、それこそシステムの知識があれば、そして興味があるならば、個人でちょっと投資をして作ったものが世に認識されれば、商売ネタになる可能性まである。そんな世の中になっていると思います。
物理的なモノづくり以外にも、YouTubeでよく使われている音声合成システム。四半世紀前には研究されていたものが、イントネーションも不安定なままそれでも使用されています。
ホリエモンこと堀江貴文さんが『99%の会社はいらない』を2016年だったかに出されましたが、99%までいかなくとも、実は多くのモノづくり企業が付加価値を高めて自社製品を販売していくという従来のビジネスモデルそのものに、亀裂というには巨大な風穴があきつつあるのではないかと感じます。
電力や水を始めとするエネルギーインフラ、あるいは電信システム、公共交通機関、保険・金融などは、その性格上、大企業的な構成が引き続き必要かもしれません。あるいは一部の建設業や情報通信業なども含まれる可能性はあります。しかし、そうではない、身軽で小回りの利く企業や組織が今後確実に増えていくのではないかと思います。あるいは大企業のまま、そういったあり方を実現する動きが主流になるのか。加えて、昨今のリモートワーク業務の広がりは、個人としての働き方のあり方が大きく変わる前兆になりつつあるように思えますが、いずれにしてもこれまでのような類の“安定性”なるモノ自体が消えようとしているのではないでしょうか。これも前世紀末には実しやかに情報として飛び回ってしましたけどね。
つらつらと企業のあり方と働き方について書きましたが、申し上げたいのは、脇目もふらずに正社員を目指したり、いたずらに高い給与を求めたり、心がひきつるほどにピリピリして組織の中でうまくやろうとしても、自分自身の疲弊が進んでしまうだけで、あなたが想定するような益は望めないということです。組織に余力がなくなってきている昨今、世界的に大きな変革が起ころうとしていると捉えられなくもありません。これは競争に参加する人数が今後ますます増えるのですから、仕方がないでしょう。
もしこれまでのような安定した存在としての大企業が新たに勃興するのであれば、そこには今ある技術や商品とは本質的に異なる、情動や感性という暗黙的な知と結びついた新しい価値が息づいたものだったりするのではないでしょうか。具体的なものを挙げろと言われても、私の愚脳で描くなどとてもとても。
そんな社会の状況に右往左往している自分を、うまくいかない、やっていけない、そんな組織に所属できないとして責めるのは、本末転倒、百害あって一利なしではないかと考えてみてください。
だけど、食べていかなきゃいけないんだ!
おそらくそういう方も多いのではないかと思います。
ただ、心身を壊してしまうのは、これもまた本末転倒。
目を血眼にして正社員だとか大企業を目指すより、自分の心に優しくなるように興味のある分野に近い仕事を求める、というところに戻ってみてはいかがでしょう。
企業に、働かせ方に文句を言う輩の多い世の中です。
ある意味正しい考え方も含まれてはいると思います。ですが、算数の問題を解くように正しいことを言っていてもすまない時代でもあるのです。というより、いつの世もそうだと思います。動いてなんぼ、です。ただ、動くときに、やたら相手方に振り回されないようにしてください。
今の場所で、考え方を変えてもう少し動いてみるのか、新しい場所へ向かうのか、休む場所と余力がある人は少し休んでみるのか、それとも独立するのか。
当HPの『恢復の道のり』にも記載しましたが、私たちがかけがえのない自分を生きるためには、適切な働き方をすることはとても大切なことです。
https://nakatanihidetaka.com/recovery_step/
適切な働き方は人ぞれぞれですが、当座の給与の多寡や時間、はやりすたりではないことは確かだと考えています。
こちらでも、そんなところを含めてサポートしていければと思います。
以上、ちょっと与太ってみました。
ー今回の表紙画像ー
『富士山に沈む夕陽』
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