『心の時代』と言われて久しい

日々の棚卸

『21世紀は心の時代』という言葉。

ミレニアム前後によく言われてました。

最近聞かないけど、どうなっているのかな。

 

20世紀の終わり、

バブル崩壊の頃までがむしゃらに働いて、

自然が汚れ、

環境破壊が進み、

長時間労働やリストラで心身を病み、

そこまでいかなくともなんだかとても疲弊し、

家族をはじめとする人の関係が壊れ、

多くの人が物理的にも精神的にも

追い詰められるようになった。

モノづくり、金融、証券、流通、商店と

20世紀に飛躍的に発展してきたけれど、

そこに働く人々の幸せの中に

心のことは考慮されていたか、

個人や家族に任せいなかったか、

企業の中で対応できるものなのか、

そういった疑問が出てきて、

この言葉に集約されたように思います。

 

そういったところを考慮した働き方、

というよりあり方があるといいな、

と感じた時期がありました。

そういった配慮がなされれば、

皆が豊かに生きていけるのではないか

と思うときがあります。

これには経済の破綻とともに増加した

自殺者数がもとになって発せられた

という意味もあるでしょう。

私の父は経済的破綻とは別の理由でしたが、

一時は3万人を超える報告が毎年繰り返され、

何かおかしいのではないか、

と直感した多くの人々によって

この言葉が支持された気がします。

 

ここまでの見立てがどこまで正しいのか、

あるいは的外れなのか、わかりません。

ただ、人は必要のないことはやらない

という私の持論からすると、

出るべくして出てきた言葉なのでしょう。

 

ここで一歩引いて考えて疑問が出ました。

確かに、

人が孤立化したり、

生きることをあきらめてしまったり、

互いに傷つけあったりという、

様々な負の事象が顕在化する傾向に対して、

『心の時代』

と唱えたくなる気持ちはわかります。

 

でも、私には何か今ひとつピンときません。

私たちは、常に心の時代にあった

と思うからです。

 

思いやりとか祈りとかまでいかなくても、

多くの歌やドラマが愛や友情をうたい、

スポーツは感動を与え、

日常の仕事は成果を分け合ってきた

という面だってあったと思います。

ほとんど常に、他者や世の中を信頼し、

生きることを肯定するような

そんなストーリーを誰かが求め、

別の誰かがそれを練り上げ、

多くの人が本やディスプレイや

時には現実で見聞きし、体験し、

皆で共有していました。

 

だとすると、あえて『心の時代』とする

その意味は一体何なんだろう、

そう思ってしまったのです。

 

どうでもいいことのようにも思えたけれど、

先ほど言ったように、

なぜだかその疑問がじわじわと

私の中で広がりだした。

 

その昔、精神病院は“墓場”とさえ見られ、

そこにたどり着いた人は事実上

廃人的に扱われていました。

“恢復”する人の数は

今とは比べ物にならないくらい少なく、

一生をそこで過ごさざるを得ない

という時代でもあったわけです。

これは近代国家ができて

ずっと続いたわけだから、

今の感覚からするとずいぶん

ひどいもんだと思うかもしれませんが、

さらにその前、

個とか自由という概念が乏しかった

江戸時代までであれば、

物の怪がついたとか、

祟りとか言って

扱われていたわけですから

ずいぶんましになったと思います。

時代を経て21世紀の現在は、

メンタルクリニックや心理カウンセリングに

一般の社会人が多く訪れているし、

街を歩けばごく普通に

心を扱う公的私的機関が見つけられる。

今もまだ、こういった場所に

奇異の目を向ける人もいるけれど、

その数は確実に減り、

新しい時代に移る静かな底流となっている。

 

こうやって、俯瞰してみて感じるのは、

『心の時代』という言葉は

キャッチフレーズとして、

集団と個の関係性のあり方の変化を

的確に捉えて出てきたように思います。

 

私たちの多くは、

どこかで共同体に属して暮らしています。

たとえ東京のような大都市で

一人で生きていてもそれは変わらない。

そんな共同体なんて疑似的なものだ

とかいう人もいるけれど、

疑似的でない共同体とは何のことかわからないし、

それがたとえ組合や公的機関との

つながりであったとしても、

根っこに流れる感覚は変わらない。

共同体としての人の集まりが様々な規模であり、

それは村や町や市や県、国、

先に挙げた組合や趣味や血縁などもあります。

 

共同体を少しでも有効に機能させるためには、

構成員としての個の存在が重要で、

一人一人を健康で幸福に

生きられるようにすることが大切だ。

心、つまり個々人の内面が

ここまで取り上げられるようになったのは、

そういう背景があるのではないかな、と思います。

本来、機能集団であるはずの企業社会で

個性が叫ばれて久しいのも、

そこに含まれる共同体的な要素に

働きかけているのではないかとさえ

感じるときがあります。

 

つまり、私たちにとって『心の時代』が

本当にあるものだとするなら、

そこには、それまでよりずっと

自分の内面を見つめ、

もう一人(というか複数)の自分と相談し、

自分にとってどう生きていくことが

自分を幸せにすることかを

これまでよりも真剣に考え、実践し、

その延長上で、共同体を含めた人の集団が

個々人の幸せを求めた行動の集積によって、

より健康的に機能させることが

求められるようになった、

ということではないでしょうか。

 

長々と理屈を書いてきたけれど、

では私たちはどうすればよいかというと、

やっぱり、必要以上に一目を気にせず、

ちゃんと自分を大切に扱おうね、ということかな。

 

ー今回の表紙画像ー

『本日の雨雲』 様々な濃度の灰色絵の具を出鱈目に塗りたくったよう。