必死に生きて底をついたとき、変化がおとずれる

日々の棚卸

 

『底つき』という言葉があります。

アルコホリックやワーカホリックなどの

ホリック - 依存症者が、

その依存の対象を離れるきっかけとなる、

どん底の状態をさす言葉とでも言えば

いいでしょうか。

 

自分が求めるやりがいを見出し、

新しい働き方、生き方を実現していく上で、

実はこの依存症と底付きの話は、

大きな示唆に富んでいると思います。

 

アルコール依存症者であれば、

飲酒自体の中に潜む

依存の病理を理解し、

この日々の行動、

つまり飲酒を続けることで、

自分の生活、例えば、

健康を害して体が弱ってしまっている、

会社や家族の人間関係がぼろぼろ、

お金が全く回らなくなっている

といったことを

認めざるを得なくなるに至って、

もたらされる、

ある種の行き詰まり感のことです。

 

アルコール依存症はあくまで一例です。

今世紀の初めには、

依存の対象は

ギャンブルやたばこや薬物、

テレビやインターネット、

スナック菓子や清涼飲料水、

何より、怒りや落ち込みなどの

感情に支配されることなど、

自分自身を含めて、身の回りに存在する

あらゆるモノ・コトがあてはまることが

わかっています。

本来感じたくないはずの感情によって

心が支配されてしまうことは

ある種の依存と言えるということです。

 

底つきについてもう少し説明させてください。

手っ取り早く飲酒を例にあげます。

アルコールにはまっている人が

何らかの理由でこれ以上飲むことをやめる

というところまで来たとします。

私はもう二度と自分の怒りに

振り回されない、とか

あの上司の叱責に感情を乗っ取られない

も同じこととして受け止めてください。

 

アルコールの場合、

依存症者が飲酒を続けようとする

方便として有名な話があります。

彼らは、こう考えます。

自分の飲酒行為そのものが

問題なのではなく、

その一部の行動だけが問題なのだと。

夜だけ飲んだり、

ワインだけ、あるいは焼酎だけ飲んだり、

一人の時だけ飲んだり、

家の中だけで飲んだり、

している分には自分は問題ないはずだ、

だから、飲酒そのものをやめる必要はない、

そう言うロジックで飲み続けようとするわけです。

 

一方で、飲酒をやめることを選択すると、

それまでとは日常の感じ方が変わってくる…

となるわけではありません。

そうなるまでには

実は、山を越える必要があります。

飲酒をやめるだけでは

日々の行き詰まり、生きづらさは

解消されません。

飲酒することで麻痺させていた、

本当は常に感じていたはずの

その生活、仕事、人の関係、生き方における

自分の弱さ、無力感、小ささ、

行き詰まり感、生きづらさを

ダイレクトに感じるようになります。

これまでなら、感情を麻痺させていた、

その代償として

人間関係と仕事と体を取り返しがつかないほど

ぼろぼろにしていたことは、

先に述べた通り。

もう一度飲んでそれらをぼろぼろにするか、

今の行き詰まり感と対峙するか。

最初は、自分をこんな状況に追いやった

過去や現在の無数の出来事に対する

怒りが湧いてくる場合もあります。

アルコールを飲んでいた頃は、

それが増幅装置となって、

周囲や自分にその怒りをぶつけていた。

それが、人間関係や心身をぼろぼろにする

という意味です。

 

しかし、もうその方法は取れない、

いや、取らないと決めた、

さて、ではこの何とも言えない

まるで自分を責めるような、

追い立てられるような、

行き詰まり感、逼迫感、焦燥感をどうするか、

というところまできて、

選択肢がないように感じます。

飲んでも地獄、飲まなくても地獄、

ということですね。

あのどうしようもない日々に戻るか、

戻らないならどうしたらよいか。

これが『底つき』の状態です。

そして、

真正面からその感覚・感情と

取り組むことを決めた時、

その人は慣れ親しんだ淀みの世界を出て、

変化することを選んだことになります。

 

私たちは、日々湧き上がってくる感情に

責任を感じる必要はないけれど、

一方で、その感情が湧き上がる背景と

その感情に対する解釈を抱えています。

そして、その感情を生み出すような

世の中の見方、感じ方が

自らの中に宿っていることは否めない。

 

底をついて変化が始まる時、

“理由はどうあれ”

アルコールで苦しんでいる自分が

なぜそんな状態になったのか、

何が自分をそうさせているのか、

それを皮膚感覚に宿った

世の中の見方、感じ方を

時間を遡って感じなおすことが

必要になります。

そこに、

自分に対して自他が与えていた

厳しい、哀しい、ひどい仕打ち、

その仕打ちに対して

自分が傷つき続けたこと、

救いを感じられず絶望感に包まれたこと、

などをしっかりと感じ取り、

それが今の(大人になった)自分から見て

どういうことなのか、

自分がもう一度その時の自分だったら

どうするのか、

その時の自分の傍に今の自分がいたら

どう声をかけるか、

といったことを考え直すことです。

しっかりと、その時の自分に共感し、

寄り添うと決めることです。

その間に、自分の自分に対する

見方、受け止め方が変化し、

それが今度は

世の中の見方、感じ方を変化させていきます。

 

多少の苦しさに負けることなく、

時に休息をとりながら、

そうやって変化を続けると、

それまで感じていた周囲の景色や、

日常に覚えていた感覚までもが、

変化していきます。

これが本当の変化の始まりです。

それは、依存をやめることを選択した末に

埋もれていた宝物を見つけるようなものです。

 

底をついたということは、

依存に陥らざるを得なかった

自らの内面への配慮、寄り添い、共感へ誘う

スタートラインについたということであり、

無意識のうちにずっと隠していた、

生きる原動力のもととなるような

情動、想い、シーンを掘り出す旅の

ベースキャンプに着いたことだと

私は思います。

 

長々と依存症と底つきの話をしてきました。

これが、新しい働き方、生き方、仕事の選択と

どう関係するのか、以下に述べます。

 

私たちが新しい働き方、生き方を求めるとき、

何をして生きていけばよいか、

何を仕事にすればよいか、

そう切に感じるとき、

すでにこの『底つき』の状態にある

のではないでしょうか。

ちょっと思い悩んで、

「あっ、もう別の仕事に変えてしまおう」

「もうこんな働き方面倒だからやめた」

「こんな生きづらい関係は終わりだ」

「じゃあね」

とさらりと簡単にできるなら、

誰も苦労しません。

かといって、簡単にできないから、

自分の心身をすり減らすしかないといっても

限度があるはずです。

そんなとき、

しっかりと自分の内面を見つめ、

自分の生き様を棚卸し、

自分が求めるものを想いとともに

理解し、あるいは直感することで、

今の仕事、働き方、生き方が、

自分にはこれ以上続けられない、続けたくない、

そういう感覚に包まれたとき、

底がついた、ということです。

本当は何を仕事にしたいのか、

本当はどうやって働いていきたいのか、

そして、

本当はどうやって生きたいのか

それを求めるための本格的な行動の

スタートラインに立った時です。

 

このとき、

これまでの自分の生き方、働き方を

責めることなく、

精一杯やった、

だからもう十分!

次へ行こう、

保証はないけれど、

わからないことはたくさんあるけれど、

今の延長に幸福を見出せそうにないのだから、

もう少し自分の感覚を大切にするような

仕事に就き、働き方をし、生きていこう、

そんな感覚を友として、

進めるといいですね。

 

『底つき』のイメージ。。。

ワンコが大きな穴に潜り込んで、

喜び勇んで宝物を掘り出そうとするシーンが

思い浮かぶ私は変かな。

 

ー今回の表紙画像ー

『近所の空』

何となくパチリ。