ディベートという議論の方法は
米国で始まったものと
浅はかなことを考えていたのだけど、
実際には大昔から
そういう仕組みとしてあったようで、
ギリシャやインドなどでも
ひろく行われていたそうです。
あるテーマ、命題に対して、
それを肯定する側の論と
否定する側の論とに分かれて、
互いがそれぞれの立場から主張を闘わせ、
その理について様々な角度から検証して、
抜けもれなく筋道の通った結果を得るための
一つの手法です。
人にありがちな思い込み、偏見が抑えられ、
とても有効な方法であると言われます。
この手法は、ある種の議論には確かに
非常に有効な方法かもしれません。
ですがこれは、
対象とするテーマによりけりだとも思います。
日本に限りませんが、
成文憲法の国で、
時折下される判決に違和感を覚えるのは、
法の素人である私たちの知識背景の乏しさに
帰する部分もあるのかもしれませんが、
訴えにはどうしても感情とか心情が含まれ、
それを法律用語と文章だけで
何とか裁こうということの限界があるから
という理由もあるのではないかと思います。
裁判官にせよ、弁護士にせよ、
このあたりの機微に精通している
ベテランの場合には、
冷静な中にも心情を慮る判決へ導くように
解釈を活用するのかもしれませんが。
ええ、裁判制度の良し悪しの話がしたかった
わけではありません。
論理にのっとり正解を導こうとすることの
限界について一言触れておきたかったんです。
人である限り、感情は存在して、
そこにはどうしたところでその人ごとの
経験に基づいたバイアスがかかることは
否めない。
これを避けたいがために、
良識、とか、冷静さを兼ね備えた選良が
望まれるわけですが、
そうは言っても、ですよね。
それこそ、
偏見をもとに言わせていただければ、
あるテーマに対して、
ある理屈をあてはめられるということは、
180度異なる理屈もまた成立する
ということを、
被害を受けた人が
被害者で居続ける理屈を正当化する
ことの中に含まれる屁理屈なるものとして、
下記に記載しました。
https://nakatanihidetaka.com/mondaitowakai/
私は以前、ある方から
人に歴史あり、
と言われたことがあります。
父の自死から少し経って、
どうにも心と体が動かなかくて、
(こんな時期はそれからも何度かありましたが)
自分のこれからに対してどうしたらよいか
五里霧中ならぬ五里闇中のような状態だった
頃のことです。
ある時、思い立って
そういった人々がこれからを生きるために
集まる場に出向いて、
人生の棚卸をしたことがあったのですが、
そこで私の過去を聞いたある方から
言われたのが、先の言葉です。
「人に歴史あり、ですね」
その方は、
原家族の崩壊と、
肉親の自死について
多少びくつきながら伝えた私の過去が
そう感じられたのでしょう。
短く柔らかく伝えられた言葉に、
当時は特別な感想もなく、
黙って受けとったのですが、
その言葉に引っかかっていたのも事実です。
まるで自分がそういった過去を克服している
と受け取られたように聞こえて、
自分で自分の内側にある“理不尽”に
あらためて感づいたからなのでしょう。
私たちは、
理不尽が降り注ぐ世の中に生きています。
理不尽は誰もが嫌でしょうが、
生きることそのものが理不尽なのだから
完全に避けられるものでもありません。
表向きの身分制度がなくなり、
国民一人一人が主役の現在の体制は、
自由の代償として、降りかかる理不尽に
それぞれが対処する必要があります。
父と母がそれぞれの言葉と態度で
家庭や世の中が、そして互いが
自分に対していかに理不尽か、
という訴えを、
私は繰り返し耳にしてきました。
それがエスカレートして、
互いを呪詛の言葉で罵り合うようになり、
その連続の日々に胸を痛めました。
今だから率直に言えるのかもしれませんが、
大切な両親が互いを貶める言葉と口調とで
傷つけあうのを見聞きするのは
胸が張り裂けるほどつらかった。
そして、最も重要なことに気づかないまま
親はおかしい、
彼らの生き方は変だ、
家族内で醸成された価値観が
自分に染みついて、今苦しんでいるんだ、
と親のことを心の中で、
ずいぶん悪しざまに
“理路整然”とつるし上げていました。
どこかで、自分が世の中に対して
うまくキャッチアップできないこと
不安にさいなまれながら生きていること、
人間関係がうまくいかないこと、
などの言い訳にしていたと思います。
自分なりに勉強しているんだ、
自分なりに試しているんだ、
自分なりにできることからやっているんだ、
でも、うまくいかないことばかりだ、
それは…、と最後に
自分が苦しめられた親の
行いや振舞い、
放たれた言葉、
残酷な行為、
そういったものに帰結しようとしていました。
自分がやっていること、
自分が考えていること、
自分が言い訳していること、
それらが全て親の生き写しになっていた、
そこに気づくまでずっと苦しみました。
既にいい歳でしたが、
まだ保護されたがっている自分に
気づいていなかったんですね。
保護されたがっていること自体が
悪いのではなく、
そういう自分がいて、
その問題を親に求めていたのでしょう。
今、何かを嘆いていますか?
何に対して?
いつの時代のどんな状況ならよかったでしょう?
親のことで苦しんでいる方は、
一度自分にそう問いかけてみて下さい。
おそらくは誰も納得できる答えなんて
ほんとはないことを理解しています。
認めるかどうかは別として、ですが。
戦後から75年、万人にチャンスがある、
というふれこみを、
まるで全員が理想の人生を歩める、
歩めなかったら誰かのせい、
と無意識のうちに勘違いしてしまっていた。
与えられた環境、
与えられた時間、
与えられた家族と親、
与えられた自分。
大人とか社会人とか、表現はともかく、
自分の人生を生きる、
かけがえのない自分を生きる、
とは、
そういったことを受け入れ、
背負うことを決め、
その中でどうやって自分が
納得いくように、
気持ちよくなるように、
充実するように
自分なりの創意工夫で実現していくか、
ということです。
そのために必要な、心と体の余裕や
メンテナンスも同じこと。
私たちは、やれることがある、
少なくともそれを探し、試し、
それをもとに人とつながり続ける
そういったことを求めることができる
世の中に生きています。
期待することがあるとしたら、
決して格好良くはないかもしれない、
泥臭くてどんくさいかもしれない、
そんな生き方を試すことができる
自分ではないでしょうか。
ー今回の表紙画像ー
『雨上がりの青空』
昨日の続き。川は濁っているけれど、街の上にかかる空は青かった。
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