想像以上に期待していたりして

日々の棚卸

 

オギャーと生まれて

学校に通って、

社会人をやるまでの間に

 

何もかもが順調に進んだ人は

そう相違ないと思います。

 

それを挫折と呼ぶかはともかく、

 

望んだ学校に入れなかったり

部活でレギュラーになれなかったり、

想いのたけを告白しても成就しなかったり

 

仲の良かった友人と仲違いしたり

仲間外れにされる経験をしたり

親を心配して勉強が手につかなかったり。

 

そんなことが重なるうちに

何となくイメージしていた明るい未来は

いつしか脆く崩れ去って、

 

自分の足で立って稼ぎ、生活するため、

厳しい現実と対峙せざるを得なくなる中で、

徐々にこう思うようになることがあります。

 

何事も

平穏無事に過ぎさってくれればいい、

と。

 

それはそれで一つの生き方として

否定されるものではありません。

 

何もかもを自分の野心に従って

道を切り開いて生きていくのも

生き方の一つなら、

 

その対極にある、

 

万事を丸く収められるよう、

自分の側で細心の注意を払い、

手間をかけて仲良く生きる、

 

というのも一つの生き方ですから。

 

そこ、つまり、

何事も平穏無事に収まるように、

という祈りにも似た思いに

 

問題があるとするなら、

 

 

それは、

その思いを実現しようとする言動に、

周囲の人々を含めた出来事を

コントロールできる、

 

という思い込みが、

含まれる場合がある、

ということかもしれません。

 

 

家族があって、

学校教育があって、

大人になるまでの間、

 

私たちはひたすら与えられ続ける人生を

歩んできました。

 

こう書くと違和感があるかもしれません。

 

ボクは、ワタシは、

自分が歩みたい道を歩んできた、と。

 

それはそれである種の真実ということは

あるでしょう。

 

ただ、それはそれとして、

与えられたものが自分の意に沿ったものとは

異なるということは確かではないでしょうか。

 

与えられたものは、

既存の社会の仕組みに対して

 

最適な結果を得られるような

選択肢を提供し、

チャレンジとを促すもので、

 

その範疇で

それなりにうまくいく一部の人がいて、

違和感を抱えたままの大多数の人がいる

 

という図式が定まります。

 

いえ、それなりにうまくいっているはずの

一部の人々でさえも、

どこかで違和感は抱えているかもしれません。

 

ともかく、

 

純粋に自分の内側から湧き上がった

何かを得るために、

 

社会に出る前から、

いろいろと試す人もいるにはいますが、

その試すことさえ与えられた中で行われ、

 

結果、

 

その枠組みの中で位置づいたあなたの場所で、

周囲と自分の“あるべき姿”を

自らの内に持つようになります。

 

たいていは歪んでいて、

精神医学用語の幼児的万能感のように、

自分で何とかできる、何とかしなければ、

 

ということを、

明らかにその範囲を超えた領域にまで

広げて適用し、

 

本来できるはずのないそれらの行為の結果に

徐々に疲弊します。

 

幼児的万能感とは、

あらゆる親の言動の原因と責任は自分にあって

裏を返せば自分が親をコントロールできる

 

という勝手な思い込みなのですが、

社会に出た後も

それがゆがんだ形で心の中に生き残り、

 

まるで周囲の環境や取り巻きは

それらが会社や上司などであっても、

自分でコントロールできると思い込むために

 

自分がなぜそこにいるかを考える前に、

そういった前提の言動が続き、

散々な結果を繰り返して疲弊する、

 

というメカニズムがあります。

 

そして意識の表層では、こう思ってしまいます。

「全然思い通りにならない」と。

 

勘違いの内容に言っておきますが、

決して相手の態度や周囲の環境が正しい、

と言っているわけではありませんよ。

 

劣悪な労働環境や、

飛び交う罵声や、

与えられる膨大な仕事量や、

 

そういったものは自分自身と相談しながら、

改善を求められるなら

求めていく必要があります。

 

ただ、

 

変えられないものを変えようとすること、

そこに躍起になること

変えられないからと疲弊すること、

 

それらをして、

自らを被害者に閉じ込めながら

おかしな万能感に支配されていないか、

 

と言っているのです。

 

それを、

高望みしているわけじゃないのに

何故これほど追い詰められるのだ、

 

と嘆きながら、

 

自分が望んでいることは、

 

ほんの少しの××と

ほんの少しの△△と

ほんの少しの○○と

……。

 

積み重なったほんの少しの望みは、

万能感の代償として

 

自分が現実に求める

自分の意に沿った反応という

ありえない結果で、

 

それとは無縁に動く周囲と世の中との

隔たりが抑鬱感と無力感をもたらします。

 

 

厳しいことを書きましたが、

別の角度から言えば、

自分の中に原因があるにせよないにせよ

 

一度ハードルを下げて

世の中と渡り合うところに来ている

のではないかとも思います。

 

下げるのは、

自らができることのハードルだけでなく、

周囲や社会に期待するハードルも、です。

 

思い通りにならない、のではなく、

思い通りにしようとしないこと。

今の在り方に対する諦念を自ら選択すること。

 

それを覚えたと時、

今いる場所に覚える苦痛や不快感は和らぎ、

 

もしあなたがそこにいる必要がなければ

逆説的に新しい場所へ踏み出すための

ヒントがあらわれるようになります。

 

新しい場所へ踏み出す勇気さえなかった

はずなのに、

 

その頃にはもう、

一歩を踏み出しているはずです。

 

ー今回の表紙画像ー

『新緑の季節』