与えてもらおうとしていたりする?

日々の棚卸

梅雨の時期は体が重くなる。1年で一番調子がよろしくない。

今年はそれほどでもないけれど、塞ぎ込みやすくなるし、腸の働きが悪くなる。時々ランチで一緒になる知人は「僕は6月生まれだからこの時期は調子がいい」と実しやかにそういうし、以前セミナーでお会いしたさる女性は、「真冬、特に厳寒期はもうずーんと気持ちが沈みがちになりますね」とおっしゃっていたから、万人に共通の症状というわけでもなさそうだ。私など、真冬の厳寒期の心はある意味夏休みくらいには調子がいいから、人それぞれなのだろう。

体の方も同じだ。定期的に行っているジョギングでは、どちらかというと寒い時期の方が調子がいい。だが、この時期になるともたれ感とともにいつもより微妙に張り出した下腹を見てペースを落とすときもある。ただ、走り終えると随分楽になるし気持ちもよくなるので翌日に影響を残さない程度に継続している。

 

心身が動かない時というのはあるものだ。過去がどうだからという話ではない。純粋にその人にとっての疲労度や体質・傾向としてそうなると先日医者から言われ、鵜呑みにしている。

そんなときはルールだとか日課だとか言って無理に実行しようとせずに、心と体を労わるのがよい。何日か試してみて改善されない時は、アプローチを変えてみる。そうやっていろいろ試してみて自分にあった日々の生活のペースを見つけよう。誰かからの指図や提案ではなく、自分と相談しながら少しずつ微調整し、実行していけばいい。別にジョギングや運動である必要はない。アロマ、温浴、読書、おしゃべり、映画、料理、自分で選んだことなら何でもいい。自分をあきらめずに、ほんの少しでも気持ちよさを追い求めればいいと思う。

 

ただ、他者から与えられることは求めないほうがいい。あなたが大人と言われる年齢であるのなら、施しを期待することでよくなりかけていた人生がおかしくなる。そのことを知っておいてほしい。

今抱えている心のしこり、哀しみ、怒り、苦痛。それらの感情の源泉は何だろう。思い通りにいかない誰かとの関係、背負わされたおかしな責任、明らかな無理強い、そして何より途切れることなく自分の中に渦巻く批判の声。気持ちよくなんてもちろんないよね。

人な無駄なことはしないものだ。マゾヒストでもない限り、そうやって耐え忍ぶ裏側には自分の中で幾重にも重なった感情の奥底に、ある種の期待を抱いていたりする。幾重にも、という言葉の通り、ぱっと思いつくものではないかもしれない。聞かされたところで「んなわけない!」と一蹴りされてしまいそうな気もする。

だがあえて言わせていただく。

何かが欲しいのだ。

何か・・・。

愛?

安心?

受け入れの言葉?

大金?

慰め?

称賛?

慈しみの感覚?

抱擁感?

万能感?

 

何だろう。

じっくりと、自分の内側を旅し、見つけ出してほしい。自分に対して正直に、素直に問い続けていれば、見えてくるはずのものだ。その欲しいものをストレートに伝えられないまま生きてきて、それが今になって形を変えて出てきている。

伝えられなかったことを責めているのでもちろんはない。そういう状況だったのだろうから。少なくとも私はそうだったし、格好悪いと言えば格好悪いかもしれないけれど、人なんてそうそう違ったりするものではない。

ただ、先に言った通り、知っておいてほしい。大切な人から与えられたいもの、欲しいものがあった、いや、あるのだ、と。それを形を変えて別のところで別の誰かや組織、社会に要求しているのだ、と。

 

残念ながら、その要求が本質的に叶うことはまずありえない。欲するものは、子供時代に与えられるものであって、大人になった私たちが受け取っても当人の意に反して、勇気づけられることも満たされることも起こりえないのだ。

それを理解するのは確かに難しいかもしれない。心が渇望し続ける情動をなだめすかしながら、自分自身に対して、自分は今そういう場所にはいないのだ、そういう時は過ぎ去ったし、実は自分なりに多くの大切なことを受け取っていたのだ、ということに気づかせようとすることは、大けがを負って泣きじゃくる子供に生きていてよかったねと理解させるような離れ業的なところがあるからだ。

だから、受け入れることを断念し、あるいは気づかないふりをする人もいて、一時的な癒しとか酔いの世界に身をゆだねたりする。それを否定するつもりはないし、大人の自分がセーブしてほどほどに楽しめるのならそれもいい。でも、もらいたいもの、与えてほしいものがあって、求めているんだよね。

 

幸か不幸か、私たちは大人になった。年齢的にも肉体的にも。

幸か不幸かと書いたけど、何をどう考え、どう見ても、『幸』でしかありえない。

変わりたくない人、気づきたくない人は頑なにその考え方自体を拒む。あほらしい、馬鹿らしい、嘘つけ、もうだまされないぞ、死にたくねえから生きてるだけだ。

偉そうに書いたけど、若かりし日の自分だってそういうところがあったな。よく生きてこれたなと思うくらい、頑なで偏屈で訳の分からない方向に凝り固まっていた気がする。

だから、紆余曲折の末、変化の兆しを受け入れざるを得なかったことは、ある意味ラッキーだったと思う。

同じことをあなたに伝えたい。

受け入れるか、信じるか、試してみるか、それらを選択するかどうかはあなた次第だ。そして、一つだけ結論を先に言っておくと、今の自分のまま周囲を変えようとして、何かをもらおうとしている限り・・・・・、いいかい、はっきり言っておくが、そのまま死ぬまで変わらないよ。タバコや薬物のように、ゆっくりと気づかないほどゆるやかに、身も心も蝕んでいくだけだ。その時には人の関係もまた一定のダメージを受けている。

大人になったあなたに人が与えられるものって、実はあまりないんだ。例えそれが、あなたの肉親や伴侶だったとしても、ただ大好きなあなたを関心を持って見守ることくらいだ。

キーワードは大人の自分。大人の自分とは今生きている自分自身のこと。周囲に何かを求め、欲し続けて文句をたれているのは、昔の自分、不足を感じ続け、泣いている自分。

だから、2つのことが必要だ。

1つは原風景のこと。原風景を取り戻そうとこれまでも述べてきた。遠ざけていたあなたの中の大切なあなた自身をもう一度心に触れ、一体感を醸成すること。その繰り返しが、実はあなたを苦しめている(と思い込んでいる)現実を小さくし、気にならないものに変えてゆく。それは自分の中のこれまでの自分が渇望していたものをゆっくりと満たしてくれることでもあるんだ。

もう1つは、今のこと。やたら要求ばかりしていたつもりが、いつの間にかいろんなものが満ち足りていることに気づく。そして、余計な感情の揺れに労力を払わなくて済むようになる。

わかってくれるだろうか。

 

何?

そんなこと思ってない?

そんなこと考えてない?

お前何言ってんだって?

じゃあさ、

何でそんなに苦しんでるの。

何でそんなに怖がってるの。

何でそんなに怒ってるの。

何でそんなに悲しんで、何でそんなに悲観して、なんでそんなにこのページに反応してるの。

 

・・・ほら、元に戻った。

 

自分をもっと信じてほしい。そして生きてきたこれまでの歩みをもっと『公平に』受け止めてほしい。無駄なことなんて何一つないってわかる時が必ず来る。

 

・・・そうやって自分を統合していったとき、いろんな人々が、世界が自分に与えてくれていることに気づくよ。