癒しと自己肯定感。二つの間にはギャップがある。両方とも、前世紀末には心理の世界で普通に使われていた言葉で、前者は多くの人が求め、後者は回復を目指す多くの人が自他を批評するときの指標とした。
私は、巷に蔓延る『癒し』という言葉が素直に受け入れられない。与えられるものという理解と嗜癖的な匂いのせいだと思う。
与えられるものとは、能動受動を問わず外部から自分に向けて取り込むものという意味で、多くの人がこのように理解しているということだ。だから、往々にして癒“される”という受け身の表現が用いられる。特に、他者に求める類のものと錯覚されがちだ。
嗜癖的な匂いとは、上記の受け身と相まって、それなしには日常生活が成り立たない(自分らしく生きていけない)状態になるということ。嗜癖としては、アルコールや薬物の依存症は有名で、これらは体に入れる物質に依存しているケースだ。それら以外にもこの世に存在する万物は依存対象となりえて、依存かどうかの判断は日常生活に支障をきたしているか、による。つまり、テレビを見たりエクササイズしたり、特定の思想や宗教にのめりこんだりすることも、それがないと日常生活が成り立たず、その一方でリアルな人との関係がどんどん途切れていってしまうようであれば十分その可能性はある。全てとは言わないが、一部の“癒しを求める人”も含まれてしまっていると感じるのだ。
この“癒される”ということ。それなりの場所に出向いて、癒しと称する言葉を耳にして、怒りや不安が吹き飛んで、翌日からルンルンと生きられる人にとっては有効なのだろう。だが、昔の自分を含めた多くの“混乱している者たち”そうなっていない。中には「楽になりました」と言ってその場を去っていく人もいるが、また憂鬱な日常に戻ることを繰り返している。
別の言い方をすると、癒しがなぜ必要か、については理解が行き届いているものの、それが意味することについて誰もが理解しているようで理解していない気がする。「癒し癒し」と繰り返し言われる割にその威力が感じられないのは、そのためだと思う。
癒しは求めればいいと思う。これに異論はない。
ただ、なぜ必要か、その結果どうなるとよいのか、そのために自分(クライアント)がすることは何で、提供者(カウンセラー・セラピスト)に期待できることは何か、を後者が明確に示す必要がある。
『癒しが必要な人』は、心の土台や幹、あるいは世界観を形作るフレームが崩れているケースが多い。身体的に言えば、足の骨が砕けてしまっているとか、背骨にひびが入っている、内臓や脳に腫瘍があるといった、当人にしてみれば生半可ではない“痛み”をリアルに感じる状態に相当する。当然、日常生活を普通にこなせるはずもないが、病院でレントゲンを撮れば状態は周囲も含めて一般的に理解可能になる。どんな治療が必要で、どのくらいの期間学校や会社を休んで、保険の手配をどうして、など、周囲のサポートを得ながら社会復帰の手立てを行うものだ。
一般社会は、“常識ある”“健康な”人の集まりで機能するように作られている。したがって、先の身体的なケースに該当する人の場合、その範疇から外れることもその理由もわかるため、別の施策を取ることを皆が合意しシステムが組まれている。
裏を返せば、先に挙げた『癒しが必要な人』が心のあり方を原因として、当人が一般的には周囲から問題とみられてしまうような極端に“常識外の”“健康でない”言動を取った場合、身体的なケースのような内的な状態を“一般の”人々と共有することは敷居が高い。残念ながら人類はまだ心を映し出すレントゲンを発明しておらず、一部の優れたカウンセラーは表出する言動を暗喩として捉え、そこから当人も気づかないメッセージを抽出してヒントを与えることを行っているような状況だ。望むらくは、人のことにばかりかまけて自分の生活をおかしくしたり、意味不明の行動に駆り立てられたりする『問題と称する言動』を繰り返す人々が、無力感や無気力に苛まれながらも、自らの試みによってかけがえのなさにたどり着ける進み方を示せないものだろうか。
癒しとは誰かに分かってもらうことではない。わかってくれる人は実はたくさんいるが、彼ら彼女ら全てがわかってくれたとしても残念ながら当人が癒されることはない。
目の前にいくらでも存在する他者の言動や手持ちの何かをヒントに、自分の中に自分を理解・共感し、感動できる自分を作り上げることでしかない。つまり内在化することだ。
そして、自己肯定感とは、自分はこれでよい、と都度受け止められるようになることだ。癒しを自分の中に実現できたとき、そのまま自己肯定感につながる。癒しを実現するという表現のとおり、自身が自らを癒すことを試み、自らの中で自らが体得した方法で有効に行われていなければならない。自ら、行う、ということは、個々人が自分の内外にあるヒントをベースに創意工夫しながら編み出していくもの、ということだ。難しく考える必要はないが、何が自分にとっての“本質的な”癒しなのか、については(当人しかわからないのだから)、感情と向き合って理解する必要がある。自己肯定感とは、自分がいつも正しい、ということでは決してない。
もう1つ。
先に挙げた『内在化』は自分を生きるためのキーワードだ。
『内在化』とは、頭(思考)と皮膚感覚(感情)の双方が有機的に合わさって、胸に去来する情動として自分の中にしっくりと納まることだ。難しい本を読む、とか、運動する、と取り違えないでほしい。
カウンセリングがあり、コーチングがあり、様々な本があり、セミナーがあり・・・・・。
得られる情報も機会も多々ある。自分を大切にしよう、とあちこちで言ってくれている。
だが、これを取り込み、植え付けるのは自分自身だ。その取り組みの繰り返しが自己治癒力と合わさって、目に見えない心の土台や世界観のフレームを修復する。実践により繰り返し与える癒しは自ら行う処方箋のようなものだ。そして再構築された心や世界観はその前より柔軟性を兼ね備えてずっと丈夫になっている。
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