米国が軍事上の理由から生み出したシステム。
インターネットがもたらしたもの。
これが私たち一般人の間に広まったとき、
つながりの代用を進化させた世界を
生み出しました。
20世紀の終わりのことですね。
組織が独占していた(メディア)情報が、
インターネットの出現によって、
半ば版権さえないも同然に、
手に入るようになりました。
あるいは、手紙のように時間がかかる情報、
電信や電話のように最小限の情報、
今は瞬時に視聴覚を満たす情報を、
映像や画像、文書で共有できます。
情報の共有は、進歩しています。
もともと、大昔なら、
一部の権威者が独占していた情報は
活版印刷によって
万人が共有できるようになりました。
つまり、万人を読者にしたわけですね。
20世紀に登場した複写機は
万人を出版社にしました。
印刷技術が知識を権威者から大衆に広め、
複写機は大衆を出版社にする可能性を与えました。
では、インターネットはどうでしょう。
***
突然ですが、
私たちの祖先は、
大いなる存在とつながる感覚を得ようと、
人は求めてきました。
それは、
自分ではコントロールできないこと、
時に人知の外にある出来事、
時に耐えきれないほど哀しいことを、
自分に納得させ、
人生の中に位置づけるためにも
必要だったからです。
祈り、
願い、
怒り、
動き、
統御し、
その中で、
個人の感覚を全体になじませようと試み続けました。
私たちが私たちであることを感じるために、
他者と出会い、
他者と触れ合うのは
今も昔も変わりはありません。
リアルなふれあいの他にそれができるのは、
意志を伝える手段としての、
文字や絵やメロディの世界でした。
当然、
地域や貧富の差や文化によって
行き渡りにはばらつきがある。
それでもつながりを感じるのは、
人の想像力が
手紙を書かせ、
絵を描かせ、
写真を撮らせ、
映像を映し、
メロディを奏で、
記録を続ける。
それが、ネットワークでつながったとき、
万人が発信者になりました。
そして、
自分が見出される範囲が各段に広がりました。
これまで私たちは、
集団で働くことが主流でした。
物を作るためにも、
サービスを提供するにも
自分とお客さんの間に
多くの人が介在しました。
卸ルートであったり、
出版社であったり。。。
インターネットの世界は
これらを一気に削減させました。
私たちの意志が形になって、
ダイレクトに世の中に見えるようになったわけです。
私たち一人一人が
他の誰か、もう一人の誰かに向けて
ダイレクトに働きかける手段を
万人が持ったとも言えます。
もちろんそれだけでは足りないと感じる人も
いるかもしれません。
自分なんて所詮、
わかってはもらえない。
発信なんてできない。
自分には無理。
21世紀が心の時代と言われる
理由でもあるわけです。
インターネットの出現によって、
誰もが発信者になったということは、
個々人がビジネスの元を手に入れたとも
言えるはずです。
組織で働くことは、
Face to Faceでコミュニケーションをとることで、
情報の齟齬を埋めてきました。
ですが、組織が自立し、
人々が安定した収入と社会的地位とを求めたとき、
代償として、
そこに依存する個が削られていきます。
命が削られると言ってもいいでしょう。
明日の職と食にも困った昔は、
それでもよかった。
ですが、安定には程遠い現在、
それすら担保されずらくなっています。
言い換えれば、あなた自身が
わずかずつであっても、
自身で安定を得る働きかけを
個人で行う必要があり、
そして行うことができるようになった、
ということでもあります。
世の中の変化は長い年月の中で、
この自立とともに、
疎外される個を救う方向に
動いていると思います。
資本主義が
中世のしきたりに支配された私たち一人一人が
自分の足で立って生きていくための
一つのシステムとして登場して、
ずいぶん経ちました。
資本主義スタート当時、
すでにこのシステムの拝金主義による暴走を
予言した学者さんは多数いました。
ある種予言通りの世の中の到来は、
システム・組織の存続を個に優先させるような
状況になくもありませんが、
同時に個が個として生きる世界をも
鮮明にしつつあるのではないでしょうか。
組織は葛藤を繰り返しながら洗練され、
同時に生き残りが難しくもなってきています。
そこに所属することは、
昔とは違う意味でとても息苦しい。
裏を返せば、
あなたはもう組織に縛られる必要は
当の昔になくなってもいます。
私たちは自信を守るために、
組織に所属する必要がなくなっているのです。
少なくとも、
その模索を誰もがする時代です。
それが伝えたくて、
こんな話をしました。
ー今回の表紙画像ー
『Ginyanma was born!』
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