私たちは自分自身を含め、
何となく、
誰もが幸せを求めていて、
誰もが幸せでありたいと望んでいる、
そう思い込んでいる。
実際、その通りなのだと思います。
幸せ…。
私もよく使う言葉だけど、
とても抽象的で、
何をもって同だったら幸せなのか。
どのようにして得られるものなのか。
ある人にとっての幸せとは
どこかからもたらされるものだったり、
あるいは
努力して頑張って成果を出して、
世の中の価値基準、
例えば収入とか、
例えば勤務する会社の名前とか
例えば地位とか、
そういったことで高く評価されることで、
そうじゃない人生は自分にはありえない、
そうでなければ生きる価値はない、
そういう類のことだったりします。
でも、そんな考え方では
自分の本当の幸せは得られない、
それよりも今の状況からの飛躍を祈って、
もっと自分と向き合って、
もっと自分の答えを引き出して、
ということを、
必死になって行っていること人もいる。
だいたい、
世の中の基準にあわせて
必死に生きているうちに、
大切な人も物も自分自身も
どんどんおかしくなっていくばかり。
そう、確かにそうなんだ。
でも、これ以上、現実に追い詰められては、
身が持たない、
心が持たない、
未来が消えてしまう。
仕事の締め切り、
借金の返済、
加速する時間の経過と年齢、
夫婦間の不和の限界、
生活の逼迫、
生きること自体への絶望感。
この一部は、心理カウンセリングを
受け始めたばかりの
私自身が陥った状況の吐露を含みます。
そのくらい混乱の真っ最中でした。
当時の私によらず、
人それぞれ理由はあっても、
行き詰った状況を何とかしたい、
この生きづらさが続く日々を変えたいと
切に願って誰かに相談するとき、
そういった日常の限界を
確実に変化させられるような
即効性のある解を
どうしても欲してしまいがちです。
息抜きや趣味に没頭する時間。
会社の評価は自分の価値と関係ないこと。
少しずつ楽しみを見出していくお試し行動。
生きてきた軌跡に自分の想いを確認すること。
自分自身の存在に嘘はなかったと知ること。
連綿とつながってきた人の関係の中に
自分がいるということ。
今知っている世界、特に仕事や家庭は、
世の中全体から見れば、
ほんの米粒程度の小さな世界のことで、
その外側に目を向けること。
そういったことを提案すると、
「そんなことは知っている」
「そんなことでよくなったりしない」
「そんな状況はとっくに通り過ぎた」
「何度もやってダメだった」
「具体的に何か効果のある方法を教えろ」
「結果がわかることが知りたい」
そんな答えが時々ですが、返ってくる。
気持ちはとてもよく理解できるのですが、
あえてその前に、一つだけ、
振り返ってみてほしいことがあります。
その、即効性のある解を知りたいとき、
それによって得たいことは何か、
についてです。
それは本音?
それとも、
何かの想いに蓋をする役割の
カモフラージュになってしまっていない?
得たいことは、具体的にどんなことか
気持ちを織り交ぜて説明できる?
それが即効性を持って得られると思いますか?
これは、
追い詰められて、
行き詰って、
何をどうしたらよいかわからなくなっている時、
どうしても陥りがちな状態です。
そしてこの状態が、
仕事の選択や、
働き方や、
人との接し方、
自己表現、
行動の選択を
誤らせたりもします。
どうしようもないほど焦りが募り、
憤り、
見捨てられることに恐怖し、
結果・けっか、結果と
目を血走らせるようになる。
追い詰められていることが
自分でもわかっている時に
必要と感じるのは、
それまでと異なる視点と
その視点をもとにした行動だけど、
それが必要だからと
やたらに焦ったままでは、
方向を切り替ええて、
すぐさま新しい解が得られることは
まずありません。
なぜなら、
その焦りや憤り、モノの見方、感じ方、
そして自分の扱い方、
それらを基準として、
言葉を、仕事を、行動を、
選択してきて今の状態があるのだから。
この状態を変えるためには、
そもそもの自分の受け止め方、
価値自体の変革が必要で、
あるいは
今の疲弊した状態が、
自分の本音を見失って
生きてきたせいであることを直感し、
自分の奥底に眠る想いを
もう一度感じ取りなおし、
その感覚に沿って、
自らの想いを体現する行動が
求められる。
だからこそ、
自分を欺くような一般受けする行動に
走るよりも、
自分との接し方、
自分をもっと大切にする受け止め方、
自分がもっと望む生き方を、
仕事や生活を通して、
考え、実践し、振り返り、
日常に変化を起こし、
継続することです。
いつも固い言い回しになってしまうけど、
簡単に言えば、
今よりもう少し、
自分の欲求や望みに忠実に
生きてみましょう
ということですね。
追い詰められている感覚に
苦しんでいるとするなら、
それが現実のことなのか、
虚像なのかを見極めてみてください。
こう書いてしまうと、
要するに現実じゃないと言いたいのか、
と言われそうですが、
そう言いたいのではありません。
お金がないこと、
仕事が行き詰っていること、
家族が壊れかけていることなど、
どれも現実的に追い詰められるほど
重大な出来事であることは
重々承知しています。
ただ、それを、
行き詰っているんだ、
どうにかしたいんだ、と
焦りと憤りが巻き起こす
混乱に取り込まれて、
何かしなくちゃ、と
自分を追い詰めているのは
他ならぬ自分自身だし、
反対にそんな自分を諫めて、
もっと自分軸に沿った生き方をすること、
ずっと大切にしてきた想い、つまり
やりたかったこと、
取り戻したいこと、
憧れていたこと、
守りたいこと、
慈しみたいこと、
そういったことを
実現する方向に
生き方の舵を切ることができるのは
自分だけです。
そして、それを一人でやろうとすると、
どうしても焦りか、
その反対の落ち込みや抑鬱で
実際の行動が止まってしまいがちだからこそ、
誰かに相談したり、
同じ問題を持つ仲間と定期的に接したり、
失敗しても挫けることなく、
具体的な行動を続けることを
いつも進めています。
今日という一日が
どれほど苦しかったとしても、
その苦しみ自体が
命を奪うことはありません。
少なくとも体は
“そういうことに対してであれば”
耐えられるように作られています。
また訪れる別の一日も、
ただそこにあるだけで、
その存在自体が自分を苦しめるわけではない。
良くも悪くもコトを起こす発端は、
心であり頭です。
心の中の蠢きが
凝り固まった思考と合わさった時、
良からぬ方向に感情が迸り、
それが体にも影響を与えてしまう。
自分を変えるとは、
魂や記憶の解釈・見つめ方を
変えるということです。
ですがそれが難しい、
あるいはそれだけでは仕方がないから、
行動そのものを変えることも
必要になる。
苦しい、追い詰められている、は
昨日今日の行動で決まった
わけではないと思います。
ずっと頑なに思い込んでいた価値観に沿って
生きてきたら今のようになってしまった、
ということではないでしょうか。
今日一日を、
今自分を苦しめている問題と
自分の存在価値自体とを切り離して、
生きてみるところから始めてみましょう。
逆説的ですが、
それもまた変化の一つです。
その中で、
大切なこと、
やり過ごせないことがあるなら、
しっかり向き合いましょう。
その一日を、その一瞬を、
自分の想いで満たすにはどうしたらよいか、
考えてみましょう。
その心の動き、行動を妨げるほどに
焦るようなことや
急を要することは
それほど多くないと思うのです。
追い詰められているのは現実かもしれませんが、
その裏側に自分の感じ方が影響しているなら、
自分の生き方によって、
その現実はいつしか
虚像と入れ替わることもありえます。
入れ替わる時には、
今苦しんでいる現実はきっと、
過去のものとなっています。
そのためにも、即効性を求める前に、
まずしっかりと今の自分を振り返り、
自分で自分の価値を認め、
心に用意された新しい空間に
これからの想いを取り込み、
そこに向けて動いていきましょう。
ー今回の表紙画像ー
『川の土手の梅の花』
花粉舞う冬の終わりに近所の川まで出向いた。梅の花らしきかわいらしい花が、青空に良く映えていた。
最近のコメント