お金が欲しい。
みんなほしいと思います。
でも、なかなか思うように
稼ぐことができない。
その心理を探っていくと、
お金を欲することを
どこかで下品と考えたり、
お金を稼ぐことに
どこかで汚さを覚えていたり……。
中には、お金が大好きで
日々頑張って稼ごうとしているのだけど、
単純に稼げないなんて方もいます。
子供の頃に親から聞かされた
2つの矛盾する言葉。
「(必要な)お金がない」
「お金お金と言うんじゃない」
じかに言われたことがなくても、
日常生活の中で
幼い頃から、
彼らの行動が、
背中が、
口調が、
表情が、
そう伝えてくることを、
自らの意識に深く刷り込み、
後の行動を支配するようになります。
お金については、
昔から無数の教えが
本や講義やメディアで説明されています。
それらの多くが、
どうやって儲ければよいのか、
懇切丁寧に書いています。
私はその手の本を手にとっても、
途中で投げ出してしていた口なのですが、
ただ、昔の人は物々交換をして
暮らしていた人も随分いたわけで、
お金を得るということが
いつから当たり前になったかについては
ずっと興味があって、
調べてみたことがあります。
いわゆる貨幣経済の歴史について、
片手間ではありますが調べてみた、
ということになるのでしょうか。
資料が最もそろっていた
資本主義が成立する過程の
ヨーロッパ社会の変遷を
自分なりに追ってみたわけです。
わかったことは、
・お金儲けは中世までは悪徳だった
・仕事は、その時代の人々の考え方・価値観などに
よってその意味合いが変わってくる
・近代資本主義社会では、
隣人を助ける(神の意志に沿う)ような
働き方、仕事でのお金儲けは善であり、
お金を得ることはその結果である
そう。お金を儲けることは結果です。
因果を間違えると、
とんでもないことになる。
神の意志というと
何だか大仰に聞こえますが、
人を助けることが仕事で、
その結果得られる富=利益は
正しいこと、とされたという意味です。
私たちは、自己決定ができる社会に
生きています。
そう思えないのは、
そう感じられないのは、
きっと生まれ育つ中で見てきた
親や周囲の大人たちの苦労と言動が
影響しているのだと思います。
そのゆえに、ままならない世界を、
自分が何かに操られている世界、と
解釈してしまうことがあるわけです。
決められた進路、
決められた社則、
決められたしきたり、
そこからはみ出ることの恐怖、
そのどれもが、
どこかで植え付けられたとも言えるし、
どこかでそう解釈して学んだ
とも言える皮膚感覚によって、
『仮初の』安定と引き換えに
自己決定という原則を売り払ってしまう。
正確に言えばそれもまた
自己決定してはいるのですが、
少なくとも意識の上では
自己決定したものではなく、
ある種の流れ・強制性の上に
選択せざるを得なかった、
と受け止めてしまっている。
お金は働いた結果として、
手に入るわけですが、
それが、
自由意思により選択したものか、
(この時は自分のやりたいことをするわけですから
仕事という感覚は乏しいかもしれません)
強制性の中でそうせざるを得なかったのか、
(これはある種の地獄ですよね)
どちらであるかによって
同じ収入を得るにも
心身にかかる負荷は大きく異なります。
先にお金儲けの条件として、
隣人を助ける、“人”のためになる
ことをすることが前提であると
書きましたが、
“人”には働く私たち自身も
含まれます。
人によって、体力差や知力、資金力は
それぞれあるでしょうが、
自分の好きなことを選択して
全力投球することは、
実は、現代社会における働き方の
前提条件だということです。
…なかなか大変ですけどね。。。
大変ではあるのですが、それでも、
試行錯誤して、
失敗を引き受ける覚悟で、
多少なりとも惹かれることのみを試みて、
志を得て、
糧を得ていくこと、
それによってこの世間以外の
誰かに卑屈に頼ることなく、
自分を満たし、
大切な他者へ慈愛を与えるために
ひたすら行動していると
お金はその結果として集まってくる。
それ以上でも、それ以下でもありません。
自らに由ってたつ自由な社会に生きて、
人の評価さえ気にしなければ、
このようにネットワークを用いて
自分の考えを発信することも
自由な世の中に、私たちは生きています。
以前、『立国は私なり、公にあらざるなり』↓
https://nakatanihidetaka.com/standing/
の中でも記載しましたが、
私も、
私たちも、
私たち以外も、
そうやって生きることを
本当は前提として、
この社会は出来上がっているはずです。
別に私のような
一介のおじさんカウンセラーが
どうこう言うまでもなく、
底流に流れる意識には、
そんな生き方を是とする思想が
共有されていると思うのです。
少し大きな話になってしまいますが、
そうであるが故に
近代国家ができ、
私有財産が認められ、
私企業が成立した。
その中で、
自由な恋愛や、
自由な職業選択や、
自由な未来の選択が
当たり前になった。
私という生き方の総体を
公にしようという意識の集積なのです。
人生を自己決定したい、という叫びと、
ままならない現実の狭間に立って苛立ち、
理屈で全て対応できるわけではないような
心の中の葛藤に対して
遠ざけていた、突き放していた
自己を受け入れて
新しい生き方を見出せるように
祈ります。
その時に祈るのは、
私たちが普段感じている
社会の決まりの間違いや
強制的に動かされる仕組みを
変えようとすることではなく、
自らの想いをこの自由な世界の中で
実践していけるように
自らが変化することを厭わない、
そういうことだと思います。
いつだって、
最初にあるのは
根底にあるのは、
資格でもなく、
所持金でも収入でもなく、
学歴や会社名でもなく、
そういった想いです。
ー今回の表紙画像ー
『アナゴの天ぷら』
ふらりと夜釣りに行ったら、大きなマアナゴが釣れた。60㎝くらい。江戸前アナゴは40㎝くらいのものを捌きます。
年季の入った長物専用のまな板で捌いて、あとは画像のとおり。
天ぷらというより、空揚げだな、これは。
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